熊倉 優(指揮)

N響を振って関東で本格的デビューを果たす新鋭の素顔

 暑い夏、今年も約3週間にわたって繰り広げられるオーケストラの熱い饗宴「フェスタサマーミューザ2018」。連日のあまたある見どころ・聴きどころの中で、大きな話題のひとつが、NHK交響楽団にデビューを飾る新鋭指揮者・熊倉優の登場だ。2016年9月から、そのN響でアシスタント指揮者を務めながら研鑽中の26歳。今年5月に広島交響楽団を指揮してデビューしたばかりのフレッシュな新人に注目が集まっている。
 プログラムはブリテンの「青少年のための管弦楽入門」、人気の上野耕平をソリストに迎えてのグラズノフ「アルト・サクソフォンと弦楽オーケストラのための協奏曲」、そしてショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。
「全体を見れば、ショスタコーヴィチとその周辺の作曲家と言えると思います。1曲ごとにかなり違うタイプの曲が並ぶので、いろいろな音楽を味わっていただければと思います」

 ショスタコーヴィチの交響曲第10番は、2016年度の日本のオーケストラの定期演奏会演奏曲ランキングで、(かなり意外な結果ながら)第1位に輝いた作品だ(日本オーケストラ連盟調べ)。N響も、パーヴォ・ヤルヴィが定期演奏会で、そして17年2〜3月のヨーロッパ公演で演奏している。
「第10番には、自分や女性の名前のイニシャルによる音型の象徴であったり、作曲当時のソビエトという国家の体制、作曲者自身の残したコメントなど、いろんな背景があります。もちろんそれに興味はあるし、知っておかなければならないことだとは思いますが、音楽の作り方としては、ある意味単純に、あくまで楽譜を手がかりに、気負うことなく誠実に作品に向かい合いたいと思います。そしてもちろん、昨年のパーヴォさんとの第10番も含めて、N響がこれまで多くの指揮者の方々と何度となく積み上げてきたショスタコーヴィチの歴史を受け取りつつ、オーケストラのみなさんと音楽で会話しながら作り上げることができたら最高です。一番大事なのは、指揮者が自分から一方的に音楽を提案するのではなく、オーケストラと音楽を共有することです」
 N響の「アシスタント指揮者」は、過去にも同じようなシステムがあったものの常設ではなく、15年に首席指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィの希望で設けられ、熊倉が抜擢された。
「パーヴォさん以外の指揮者のときにもほとんどすべてのリハーサルに立ち会って勉強させていただいています。アシスタントとしての役目は指揮者によってもまちまちですが、コンサート会場でオーケストラのバランスを確認したり、そのために、どんなバランスで解釈しているのかをあらかじめディスカッションしたり。パーヴォさんには、バランスについてはかなり信頼していただいて、会場でのリハーサル中にも、よくこちらを振り返って確認してくださいます。
 また、楽員のみなさんからさまざまな質問をいただいて、それをまとめて、指揮者に尋ねるのも大事な仕事です。驚いたのは、みなさんがとても細かい一音一音について、この音はどうしたらいいのか、どう聴こえているのかと質問を持ってこられることでした。それは年に何度も演奏するようなポピュラーな作品でも同じです。音楽に対して本当にまじめな気持ちで取り組んでいるのだなと、あらためて感心しました」

 1992年3月11日、東京都杉並区久我山生まれ。いわゆる英才教育で育ったわけではない。ヴァイオリンを習ってジュニア・オーケストラに所属していたものの、音楽を専門にして生きたいと考えるようになったのは、高校生になった頃のこと。
「でも本当に何も知らなくて。作曲家という人がいるのだということも、ジュニア・オーケストラで初めて知ったぐらいです。本格的に始めるのが遅かった分、音楽を嫌いになるヒマがなくてよかったと、勝手に考えています(笑)。でも緊張が極端に身体に出るタイプで、オーケストラでヴァイオリンを弾いていても両腕が震えてしまうほど。そもそもヴァイオリニストになるほどまじめに練習していたわけでもないですし、自分では音を出さない作曲や指揮に興味を持って、高校のときに作曲の三瀬和朗先生の個人レッスンに通い始めました」
 桐朋学園大学にも作曲で入学。三瀬と金子仁美に師事して同大学研究科まで勉強した。作曲家としては“理系寄り“だったという。
「パズル的な作曲が好きで、数字や物理、生物学などに基づいたような曲を書いていました。かといって、より最先端の“現代音楽”に踏む込む勇気もなく、新しい音楽を一から作るのではない、過去のエクリチュールの結果のような音楽ばかりを書いていたような気がします」
 そして、作曲と並行する形で副科で指揮を梅田俊明のもとで学び始める。
 「小学生の頃、親に『僕は指揮者になる!』と宣言したらしいですが記憶はありません(笑)。指揮は完全に大学に入ってからのスタートです。何もないゼロの状態から作品を生み出さなければならない作曲よりも、すでにある楽譜から音楽を作り上げる指揮のほうが、僕にとっては魅力的でした。もちろん、0から1を作り出さなくて済む代わりに、指揮者は1を100にしなければなりませんから、どちらも大変な道のりであることに違いないのですけれど。
 そうやって興味の中心が徐々に指揮のほうに移っていっても、指揮科に転向しようとは考えませんでした。桐朋の場合、指揮は専攻も副科でもあまり差がなく勉強できるのです。レッスン時間も変わりません。それに実際、作曲の勉強を通して知ることも多かったですしね。譜面にどう書くのか、という作曲家の視点は指揮者にとっても大切です。作曲で勉強したことは、どれひとつとして、まったく無駄ではなかったと思っています」
 指揮を中心に学んでいた研究科時代にも、パリ大学で世界最先端の電子音響と音響プログラムを学ぶために数ヵ月留学しているから、作曲もけっして片手間の勉強だったわけではないようだ。しかしいまは、まれに編曲をするぐらいで作曲はまったくせず、100パーセント指揮に専念している。
「作曲はいつでもできるので、人生でまたいつか再開できたらいいなとは思っています」

2017年8月 チェコのカルロヴィバリ交響楽団演奏風景

 さて、桐朋学園の指揮科といえば、運動として体系化された齋藤秀雄式指揮法で知られる。しかしむろん、バトン・テクニックだけが大切なわけではない。
「もちろん大切ですが、そのとおりに振ったから良い音が出るわけではありません。あくまで、結果をもたらす手段のひとつです。でも僕にとっては、腕の動かし方を言語化できるというのが、自分の理解のうえでは大きいことです(編注:齋藤秀雄の『指揮法教程』では、腕の動きを、「先入」「撥ね上げ」「引掛け」など、さまざまに分析・分類している)。うまくいかないときに、その理由を抽象的にではなく、言葉として考えることで選択肢ができるのは助かります。
ただ、もちろん指揮というのは難しくて、すべての音が棒から出るのか、もっと抽象的な、心や音楽の理解から出てくるものなのか。N響の現場でいろんな方の指揮を見せていただいても、僕にはまったく言語化できない振り方で、素晴らしい音楽が溢れ出る方も少なくないのです。それはたぶん、その方の佇まいとか、リハーサル室に現れた瞬間からの時間の過ごし方とか、そういうことのすべての結果なのですね。もちろんひとつの正解なんてないのだと思っています。いまの僕にどれだけ吸収できるかはわかりませんが、その現場を目撃できるだけでも貴重な体験です」
 学生時代は「絶対に暗譜で振ったほうがかっこいい」と思っていたというが、いまは少し変わってきたという。
「ちょっと迷うんですけど、ブロムシュテットさんやアシュケナージさんは絶対に譜面を置いて指揮しますよね。それが作曲家への敬意だとおっしゃっていました。オーケストラのみなさんの中にも、指揮者が楽譜なしで立つと不安で怖いとおっしゃる方もいるので、それならば、見るか見ないかは別として、譜面を置いてめくったほうがいいのかなと。雰囲気づくりも指揮者の大事な仕事のひとつですから。そんなことを考えられるようになったのも、こうして現場で勉強するようになってからです」

 2016年3月に研究科を修了した半年後にはN響の仕事が始まったから、いままでのところ彼のプロとしてのキャリアのほぼすべてが、このオーケストラとともにあった。現場の叩き上げと言ってもよいだろう。そして満を持しての、そのN響へのデビュー。指揮者としてのすべてがこれから始まるのだ。
「2年近く、このオーケストラに来るさまざまなタイプの指揮者のリハーサルとその結果を間近で見ることができた経験は大きかったと思っています。もしたとえば、誰か一人の指揮者に弟子入りしていたら、その指揮者の振るオーケストラの違いはわかるかもしれませんが、指揮者は一人しか見ることができません。そうではなく、NHK交響楽団というオーケストラの現場で、指揮者の違いを定点観測できるのは本当に貴重です。同じ曲でも、指揮者によってオーケストラの反応がまったく違うのも目の当たりにしてきました。
 その意味では今回、僕のような誰も知らない若造が振ったときにどんな結果が出るのか。N響の長い伝統の音と、若い僕の間にどんなやりとりがあって、どんな音楽が出てくるか、ぜひ楽しみにしていただければと思います」
「将来的には海外でも学びたいし、コンクールにも挑戦したい。オペラやバレエもしっかり勉強して」と目を輝かせる。才能ある若い音楽家の登場はいつも喜ばしい。前途洋々たる未来に一歩を踏み出した新星の門出に声援を送ろう!
取材・文:宮本明


フェスタサマーミューザKAWASAKI 2018 
7月21日(土)〜8月12日(日)ミューザ川崎シンフォニーホール

熊倉 優(指揮)NHK交響楽団 
共演:上野耕平(サクソフォン)
8月4日(土)16:00開演(終演予定:18:00)

〈曲目〉ブリテン:青少年のための管弦楽入門、グラズノフ:アルト・サクソフォンと弦楽オーケストラのための協奏曲、ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
〈料金〉S ¥5000  A ¥4000  B¥3000

問:ミューザ川崎シンフォニーホール044-520-0200  
http://www.kawasaki-sym-hall.jp/