沼尻竜典音楽監督が語る、神奈川フィルの進化と成熟——2026-2027シーズン定期演奏会への展望

沼尻竜典

取材・文:八木宏之
写真:中村風詩人

沼尻竜典を音楽監督に迎えて以来、神奈川フィルハーモニー管弦楽団はシンフォニーからオペラに及ぶ幅広いレパートリーに取り組み、スコアの隅々にまで光を当てる明晰さと多彩な表現のパレットを手にした。オーケストラに新たな飛躍をもたらした沼尻も、2026年4月に着任5シーズン目を迎え、さらなる円熟へと歩みを進める。楽員の世代交代も進み、若いメンバーも増えた神奈川フィルだが、そうした新しい世代の適応力がオーケストラにエネルギーをもたらした。ベートーヴェンの「第九」のような弾き慣れたレパートリーも、丁寧にリハーサルを重ねてみると、神奈川フィルの持ち味と底力がどんどん溢れ出てくると沼尻は手応えを感じている。
2026-2027シーズンは、古今東西の名曲に改めてじっくりと取り組んで、定期演奏会の王道に立ち返ることがテーマとなる。定期演奏会9公演のうち、沼尻が指揮台に立つのは4公演。プログラムにはショスタコーヴィチやブルックナー、マーラーの大曲が並ぶ。新シーズンを前に、沼尻が指揮台に立つ公演を中心に話を聞いた。

ショスタコーヴィチ、ブルックナー、ラヴェル
名曲に立ち返り、オーケストラの力を問い直す

 シーズンの開幕を飾る第413回定期演奏会(2026.4/18)は今シーズンに続いて、ショスタコーヴィチの協奏曲と交響曲の組み合わせ。ヴァイオリン協奏曲第2番のソリストは神奈川フィルの顔ともいうべき、首席ソロ・コンサートマスターの石田泰尚が務め、交響曲はショスタコーヴィチの作品中、もっともよく知られる第5番が取り上げられる。
「コンサートマスターかソリストかにかかわらず、石田さんが演奏していると神奈川フィルは彼のオーラに包まれます。ヴァイオリン協奏曲第2番も交響曲第5番も石田さんの音楽性にぴったり合う作品でしょう。石田さんのうちに秘める繊細さには、ショスタコーヴィチの音楽に通じるものがあるような気がします。これまで後期の交響曲を中心に取り上げてきましたが、その経験を踏まえて、改めて名曲の第5番を演奏したら、新しい世界が広がるのではないかと期待しています」

 第415回定期演奏会(26.7/11)で演奏されるのはブルックナーの交響曲第7番。沼尻と神奈川フィルのブルックナーは、第5番、第8番に続いて3曲目となる。
「ブルックナーの交響曲のなかでも、第7番は長すぎず、短すぎず、適度な長さで、巧みな構成を持っている作品です。第8番ではマラソンのようにペース配分をしなければなりませんが、第7番は音楽の自然な流れに身を任せていられます。後半のふたつの楽章が前半のふたつに比べてコンパクトに感じられるかもしれませんが、第3楽章と第4楽章をひとつのユニットと捉えれば、腑に落ちるでしょう。第7番はブルックナーのワーグナーへの想いが込められた作品でもありますから、《ラインの黄金》での経験もいきてくるのではないでしょうか」

2023年から続けるセミステージ形式のオペラシリーズ「Dramatic Series」。
2025年には沼尻竜典の代名詞ともいえるワーグナー作品から《ラインの黄金》を取り上げた。
撮影:藤本史昭
撮影:藤本史昭

 第418回定期演奏会(26.11/28)では、ヴィオラの巨匠、今井信子を迎えてベルリオーズの「イタリアのハロルド」を演奏し、後半には沼尻の十八番ともいえるラヴェルの作品を取り上げる。今井と沼尻の共演は、2012年の群馬交響楽団定期演奏会でのバルトーク以来、14年ぶり。沼尻が「イタリアのハロルド」を指揮するのは、意外にも今回が初めてとなる。
「今井さんとエッシェンバッハによる『イタリアのハロルド』をウィーンで聴いたことがあり、その演奏が忘れられない名演だったので、いつか今井さんとこの作品を共演したいと願っていました。それが今回ついに実現します。今井さんは桐朋学園の先輩でもありますが、私が学生の頃からすでに国際的に活躍されていて、ずっと背中を追ってきた音楽家ですので、久しぶりの共演を今から楽しみにしています。
 『高雅で感傷的なワルツ』は、ラヴェルの作品のなかでは内省的なものですが、演奏の難易度は高く、オーケストラの実力が試されます。『ボレロ』も個人技の連続だと思われがちですが、先日神奈川フィルと演奏した際に、しっかりとリハーサルをして臨んだところ、作品の持つ旨みがオーケストラから滲み出てきて、これはぜひ定期演奏会でも聴いていただこうということになり、プログラムに入れました」

マーラー、ベートーヴェン、プッチーニ
神奈川フィルとの次なるステージへ

 シーズンの締めくくりとなる第421回定期演奏会(2027.3/13)では、アルトの重島清香、神奈川ハーモニック・クワイア、横須賀芸術劇場少年少女合唱団とともに、マーラー最大の交響曲、第3番を取り上げる。沼尻が音楽監督着任前から神奈川フィルと取り組んでいるマーラーの交響曲は、今回の第3番で4曲目となる。
「前回の交響曲第7番は東京公演でも披露しましたが、神奈川フィルは、作品の難解さを感じさせない、集中度の高い演奏を聴かせてくれました。第3番は第7番以上に全体像が掴み難い曲ですが、今の神奈川フィルなら作品の構成がしっかりと見える演奏を実現できると思います。アルトの重島さんはワイマール国民劇場の専属として活躍されている方で、マーラーにふさわしい深い声を持った歌手です。『第九』でも鮮烈な印象を残した神奈川ハーモニック・クワイアは、プロの歌手で構成される、全員がソリスト級の実力を持つ合唱団ですから、大いに期待していただきたいと思います。児童合唱も高度なテクニックが求められるので、横須賀芸術劇場少年少女合唱団の歌声にもぜひご注目ください」

 2027年のベートーヴェン没後200年へ向けて、2025年にスタートしたミューザ川崎シリーズ「Beethoven Ring」も聴き逃せない。ベートーヴェンとその影響を受けた作曲家を掘り下げる本シリーズの第6回演奏会(27.3/3)には沼尻が登場し、ブラームスのピアノ協奏曲第1番とベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を指揮する。ブラームスのソリストはウィーン生まれの名手、シュテファン・ヴラダーが務める。ヴラダーはウィーン音楽大学の教授のほか、近年は指揮者としても活動し、沼尻の後任としてリューベック歌劇場の音楽総監督の重責も担っている。
「ベートーヴェンの交響曲は、アニバーサリーでなくても、常にオーケストラの中核的なレパートリーです。とはいえ、こうした節目にもう一度新鮮な気持ちで楽譜と向き合ってリハーサルに取り組んでみることで、新しい発見もあるでしょう。(2020年の)生誕250年は不運にもコロナ禍と重なってしまったので、今度こそ、ベートーヴェン・イヤーをお客様と分かち合いたいと思います。
 ヴラダーさんはピアニストだけでなく、教育者、指揮者としても活躍する素晴らしい音楽家です。ブラームスのピアノ協奏曲第1番はメインにもなり得るような大曲で、『英雄』と組み合わせたプログラムは重量級ですが、ぜひじっくりと味わっていただきたいですね」

 4回目となる「Dramatic Series」では、シリーズ初のイタリア・オペラとしてプッチーニの歌劇《トスカ》をコンサート形式で上演する(26.6/20)。
「《トスカ》のオーケストレーションには、イタリアのとろけるような音色と歌心が含まれていて、声楽とともに伸び縮みするテンポ感もプッチーニ特有のものです。そうした音楽を経験することは、オーケストラにとって表現の引き出しを増やすことになりますし、シンフォニックなレパートリーを演奏する際にも大いに役立ちます。トスカ役の佐藤康子さん、カヴァラドッシ役のシュテファン・ポップさんをはじめ、キャストも、私がこれまで共演してきた素晴らしい歌い手が集っています。神奈川でオペラを聴く機会はそう多くないですから、ぜひ足を運んでいただけたら嬉しいです」

 「王道に立ち返る」という来シーズンも、さまざまな大作を通して音楽表現の広がりを探究する沼尻と神奈川フィルの協働に大いに期待したい。


神奈川フィルハーモニー管弦楽団
https://www.kanaphil.or.jp

※発売日など各公演の詳細は上記ウェブサイトでご確認ください。


八木宏之 Hiroyuki Yagi

青山学院大学文学部史学科芸術史コース卒。愛知県立芸術大学大学院音楽研究科博士前期課程(修士:音楽学)およびソルボンヌ大学音楽専門職修士課程(Master 2 Professionnel Médiation de la Musique)修了。
2021年春にWebメディア『FREUDE』を立ち上げ。クラシック音楽を中心にプログラムノートやライナーノーツ、レビュー、エッセイを多数執筆するほか、アーティストへのインタビュー、コンサートのプレトーク、講演会なども積極的に行なっている。
https://freudemedia.com