バッハが「ゴールドベルク」で突き付ける“人生の命題”
ピアニストであり医師である上杉春雄は長年バッハと真摯に対峙してきたが、2011年に「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」をリリースし、今回満を持してJ.S.バッハの「ゴールドベルク変奏曲」を録音した。
「『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』の後、『第2巻』までのバッハの思考過程をたどって研究してきました。『ゴールドベルク』の演奏に関してはライナーノーツにも記しましたが、バッハの生き方と人物像がどのように音楽に表れているかを表現したかったのです」
ライナーノーツは「『構造が聴こえるように』とはショパンの言葉である」という一節から始まる。そして「ゴールドベルク変奏曲」の「深み」を見てみたいという言葉で前文が閉じられる。さらに「“2”という数に基づく構造」「“3”という数に基づく構造」「テーマ」「バッハの時代」「深みだけではなく…」「後世に引き継がれた大いなる遺産」という文が綴られ、音楽を聴きながら読むと作品の内奥へと深く分け入っていく上杉の真意に近づくことができる。
「バッハは“一公務員”でした。小市民的生活のさまざまな軋轢の中で、自身の音楽を守り抜いた人です。楽譜を分析・研究していくと、バッハがどこかで人類の命題である“自分とは何か”“どう生きるべきか”ということに向き合って音楽を作っていた、というように感じます。僕自身日々の些細な問題にぶつかっても、バッハの音楽から伝わる、“より大きな使命感をもってそれを乗り越えよう”という意志に支えられるような気持ちに何度もなりました。それを自分のピアノで表現したいと思って録音しました」
録音は上杉春雄の「いまの心身の状態」を色濃く映し出している。彼は医師という重要な責務を担いながらピアノに向かい、ふたつを両輪として生きている。上杉の紡ぐバッハの音は凛としていながらもぬくもりに満ち、心に深く響く。
「ショパンの『構造が聴こえるように』という言葉は、ショパンが所有していたバッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』のファクシミリ楽譜の解説で目にしました。僕は建築好きなので、『ゴールドベルク』の構造を様々な観点から分析し、演奏で実現することを通じて、大建築のように時に左右されず人々の生き方を守り安心を与えるような、そんな音楽を提示したいと思いました」
美しいアリアから旅は始まり、30の変奏を経て最後のアリアにたどり着くと、また新たなる未知の世界へと旅する気分にさせてくれる上杉春雄の演奏。その極意を堪能したい。
取材・文:伊熊よし子
(ぶらあぼ2018年9月号より)
CD『J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲』
オクタヴィア・レコード
OVCT-00149(2枚組)
¥3800+税(SACDハイブリッド盤)