プッチーニ《蝶々夫人》 | 岸純信のオペラ名作早わかり 〜新時代のオペラ作品ガイド 第3回 

text:岸 純信(オペラ研究家)

【あらすじ】
明治期の長崎を舞台に、大和撫子の蝶々さんが米国海軍士官のピンカートンと結ばれるが、帰国した夫はアメリカ人と結婚。彼を待ち続けた蝶々さんは、軍艦が戻ってきたその日、子どもも手放すよう言われて「抗議の死」を選ぶという悲劇の物語。

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《蝶々夫人 Madama Butterfly》は、日本人に「日本の美学を改めて考えさせる」契機となるオペラである。本作はイタリア語の台本にイタリア人が音楽を付けたものであり、その直接の原作もアメリカ人の手になる英語の芝居なので、劇中に日本色が盛り込まれているとはいえ、全体的には「西欧人の眼から見た日本」を映す作品になっている。

ただし、作曲家プッチーニが見知らぬ東洋の国に寄せた思いは非常に強く、楽譜にわざわざ「Tragedia giapponese 日本の悲劇」と銘打ったぐらいである。そこには、彼が当時の駐イタリア公使夫人、大山久子の協力を仰いだ結果、彼女の知性と人柄に深く心打たれたという出来事も影響したのだろう。日本から持参した箏を弾いて邦楽のメロディを教えたと言われる久子女史の厚意に、プッチーニはいたく感動したに違いない。

一方、この作曲家は「耳を捉えた音」については譲らずにいた。蝶々さんに好意を寄せるお大尽ヤマドリについて、女史が「名前が女性的でおかしい」と述べたところ、プッチーニは「いや、この音が面白いから使いたいのです」とはっきり表明した。オペラはドキュメンタリーではなく、作曲家の「心をそそる音」が何より大切であったからである。また、日本の神様の名前も西欧人に聴きとり易い発音に変えられた。主人公を案じて女中のスズキが祈るシーンでは、イザナギ神が「Izaghi」に、猿田彦神が「Sarundasico」になり、お経を唱えるがごとく彼女はお鈴も鳴らすのだ。こうした細部が文化の誤解に結び付くかもしれない。しかし、プッチーニの音運びがあまりにスムーズなので、我々も自然と受け入れてしまうのである。

長崎・グラバー園のプッチーニ像

原作芝居の『蝶々夫人 Madame Butterfly』をロンドンで観て、大いに心揺さぶられたプッチーニは、楽屋にいた作者デイヴィッド・ベラスコに飛びついて、涙ながらに「オペラ化させて欲しい」と頼んだという。英語が殆ど分からなかった作曲家をそこまで感動させたドラマの核は、夫のピンカートンに裏切られた主人公が迷わず死を選ぶという、ただか弱いだけではない日本女性の毅然とした心根にあった。

ところで、純情可憐な風情の持ち主ながら、蝶々さんは、音楽的には殆ど出ずっぱりで歌い演じるという「声の体力勝負」の役どころ。何よりも豊かな声音が求められる難役である。その彼女を取り巻くのは、誠意を尽くすスズキ、現実味ある憎まれ役のゴロー、人情に富む領事シャープレス、ものの分かったヤマドリなど現代人にも理解しやすい人物像ばかりである。ドラマをさらに掘り下げる彼らの存在感も、「トンでも風の命名法」を超える真実味をもたらしている。

なればこそ、我々は一回でも多く《蝶々夫人》を観劇したいもの。外国の眼から見た日本的な個性と、日本人が感じる美の在り方を比べたならば、新しい感覚が心にすんなりと飛びこんでくることだろう。


《蝶々夫人》Madama Butterfly(1904)

全2幕のオペラ(Tragedia giapponese)
台本:イタリア語
作曲者:ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)
台本作者:ルイージ・イッリカ(1857-1919)&ジュゼッペ・ジャコーザ(1847-1906)

推薦盤
DVD(2004年ヴェローナ):D.オーレン指揮/F.ゼッフィレッリ演出
*主役のF.チェドリンス(S)の歌唱力と共に、彼女を支えるスズキ役のF.フランチ(Ms)の演技が日本の美学を体現していることにも注目。

【見どころ&聴きどころ】
第1幕の舞台裏からの蝶々さんの初登場の歌声
第1幕の蝶々さんとピンカートンの〈愛の二重唱〉
第2幕の蝶々さんの名アリア〈ある晴れた日に〉
第2幕の蝶々さんとシャープレスの〈手紙の二重唱〉
第2幕の蝶々さんとスズキの〈花の二重唱〉
第2幕の舞台裏からの〈ハミングコーラス〉
第2幕のスズキ、シャープレス、ピンカートンの三重唱
第2幕のピンカートンの小アリア〈愛の家よ、さようなら〉
第2幕大詰めの蝶々さんのアリア〈可愛い坊や〉

Profile
岸 純信(Suminobu Kishi)

オペラ研究家。1963年生まれ。『音楽の友』『レコード芸術』『ぶらあぼ』『音楽現代』『モーストリー・クラシック』や公演プログラムに寄稿。CD&DVDの解説多数。NHK-Eテレ『ららら♪クラシック』やFM『オペラ・ファンタスティカ』等に出演を重ねる。著書『オペラは手ごわい』(春秋社)、訳書『マリア・カラスという生きかた』(音楽之友社)など。大阪大学非常勤講師(オペラ史)。新国立劇場オペラ専門委員。静岡国際オペラコンクール企画運営委員。