モーツァルトの短調作品に聴く内なる深淵
モントリオール(カナダ)のマギル大学音楽学部ピアノ本科主任教授を務めるピアニストの橋本京子は、これまでにスイス、米国、ベルギー、オランダなどに居住し、30ヵ国以上の国をまわり、多彩な演奏活動を行ってきた。豊富なレパートリーを持つ彼女が今回『影からの音たち』と題した新譜のために選んだのはオール・モーツァルト・プログラムである。
「モーツァルトはピアニストにとって永遠の課題です。音が少なく、スタイルが確立しているので、演奏者の音楽性が前面に表れてしまいますからね。録音をするのはとても勇気が必要でしたが、“今だからこそできるものを”と思い、臨みました」
今回のモーツァルトは「ソナタ第2番」を除き、すべて短調が主体となった作品でまとめている(ソナタも第2楽章は短調である)。これには橋本のこだわりがあった。
「モーツァルトの短調には、長調の作品とは明らかな違いがあります。心の奥底にある、どうしようもなく、逃れることのできない“かなしみ”が聞こえてくる気がするのです。私はそれがとても好きで、どうしても今回のテーマにしたかったのです」
また、「アダージョ ロ短調」のように演奏機会の少ない作品も収録され、各曲の調が関連を持つような曲の配置からも橋本の徹底した世界観の構築が見て取れる。それは濃淡の明瞭なタッチが紡ぎ出す多彩なキャラクター性のある演奏にも反映されている。
「モーツァルトのピアノ作品は、他の楽器の音色を絶えず意識する必要があります。場面転換や急激な転調などが多くドラマティックなので、オペラ的な感覚を持つことも非常に重要です。私が学生にモーツァルトを教えるときも、必ずオペラを聴くようにと言っています」
他の楽器の音色を常に意識し、具現化させる橋本の音色と音楽性は、ミッシャ・マイスキーなど世界的な演奏家からの信頼も厚い。このピアニズムには齋藤秀雄の最晩年に薫陶を受けたことがとても大きかったという。
「高校2年生の夏から2年間、齋藤先生のもとでフルスコアを読んで60曲以上のオーケストラ作品を弾かせていただきました。徹底的に弦楽器や管楽器の音色を再現することを叩き込まれたことは、今でも大きな財産になっています」
積み重ねてきた経験や多くのアーティストとの共演といった糧を、自らの音色や音楽性に昇華し続ける橋本。「何かの“スペシャリスト”になるのではなく、様々なことに挑戦し続けたい」と語る彼女が奏でるモーツァルトは、“影”という一見モノトーンの世界の中にたくさんの表情と色を見出すことができるはずだ。
取材・文:長井進之介
(ぶらあぼ2018年6月号より)
CD
『橋本京子プレイズ W.A.モーツァルト “影からの音たち”』
ナミ・レコード
WWCC-7874 ¥2500+税
2018.5/25(金)発売