真実の鏡に映るのは、私たちの未来か?
若き日のヘンデルが世に問うた寓意のオラトリオ

ヨーロッパの古楽界の巨匠、ベルギー出身のルネ・ヤーコプスが、実に30年以上の時を経て、この春、母国のピリオド楽器精鋭集団「ビー・ロック・オーケストラ」とともに来日する。カウンターテナーとして1970年代に頭角を現すと、自らのアンサンブル「コンチェルト・ヴォカーレ」を設立。指揮者としても活躍してきた。近年は「ベルリン古楽アカデミー」などと頻繁に共演し、モンテヴェルディからモーツァルト、さらにはウェーバーのオペラ全曲録音にも取り組んでいる。1990年代以来となる来日を前に、パリで話を聞くことができた。
「日本でのコンサートは鮮明に覚えています。モンテヴェルディの《ウリッセの帰還》を上演しましたよね。あとエール・ド・クール!(*)世界中探しても、こんなプログラムで出演をお願いしてくるのは日本だけです。日本のオーディエンスの質の高さを感じました。韓国の歌姫スンヘ・イムなどの歌手たちや故郷の古楽オケと一緒に帰ってくることができて嬉しいです」
そんなヤーコプスが今回上演するのは、22歳の若きヘンデルが作曲した、イタリア語によるオラトリオ「時と悟りの勝利」。あえてこのプログラムを選んだ理由とは何なのか。
「アレゴリーの性質、つまりイソップ寓話のように人生の教訓を学ぶことができるオラトリオです。合唱はなく、登場人物は4人。それぞれがステージ上で芝居を交えて歌います。La Bellezzaは美の象徴であり、女性です。この美には天国や神聖な美しさも含まれます。一方、Il Piacereは快楽の象徴で、(冠詞が)ilなので男性ですがソプラノによって歌われます。彼は地上の快楽、つまり物欲、私欲、官能性、さらには虚栄心を表現します。彼は『美しさこそが最も重要で、この美しさを永遠にするために結婚しよう』とBellezzaを説得します。Bellezzaは偽りの鏡に映る自分を信じ込み、一生の美しさ、永遠の虚栄心を得られると思い込んでしまうのです。しかし、最終的には破局を迎えます。タイトルが示す通り、時と悟りが快楽に打ち勝つのです」

同時代の絵画がこのストーリーの手がかりを与えている。
「後に英語に改作された際のタイトルページにある絵画で、Tempoは鎌を持った天使として描かれています。農民が草を刈るように、Tempoは若者たちの時間を奪います。そして彼には飛ぶための翼があります。つまり、Time Flies(時間が経つのは早い)ということです。永遠の美しさや命は存在しないのです。Disinganno(悟り)という言葉も興味深いです。イタリア語で『だます』『欺く』を意味する ingannareの対義語であり、欺きから救い出すことを指します。これはドイツ語のaufklären(啓発)や英語のenlighten(啓蒙)といった言葉に通じます。ストーリーの通り、真実の鏡で反射させた太陽光が真実を照らし、Bellezzaを救い出すのです」
ストーリーはさておき、音楽的な面白さにも溢れているようだ。
「若い頃のヘンデルの音楽はより大胆で冒険的でした。『時と悟りの勝利』の中の多くの音楽は後に再利用されています。お馴染みの〈私を泣かせてください〉の元ネタもその一つです。最後のアリアはホ長調で、天国的な響きを持つヴァイオリンがしっとりと幕を閉じますが、これを演奏するたびに、キリストによって改心したマグダラのマリアを意識して書かれたような気がしてならないのです」
象徴学による楽曲の解読を終えた後、世界情勢についても話が及んだ。
「私は、世界が悪い方向に進んでいると感じざるを得ません。ソーシャルメディアの氾濫やAIの急激な進化には不安を覚えます。今回の演奏会では、世界に光が差し込み、私欲や物欲から解き放たれた、より人間的な未来への祈りを込めたいと思っています」
ちなみに、鏡は虚像の象徴とも言われる。筆者には、Bellezzaと鏡の関係が、まるで現代人が携帯電話をチェックし、SNS上の他人の目を意識して生きている姿に重なって見えた。「音楽付きイソップ寓話」は、現代を生きる私たちに何を教えてくれるだろうか。
(*:16-17世紀のフランス貴族たちの間で流行った歌曲集)
取材・文:柴田俊幸(フラウト・トラヴェルソ奏者)
写真:Alice Lemarin
(ぶらあぼ2025年3月号より)
ルネ・ヤーコプス指揮 ビー・ロック・オーケストラ
ヘンデル《時と悟りの勝利》
2025.4/4(金)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
出演/スンへ・イム(美)、カテリーナ・カスパー(快楽)、ポール・フィギエ(悟り)、トーマス・ウォーカー(時)
曲目/ヘンデル:オラトリオ《時と悟りの勝利》HWV46a(日本語字幕付)
問:東京オペラシティチケットセンター03-5353-9999
https://www.operacity.jp