務川清話 其の二

静寂という音楽

 ある物事に関する理想像が頭の中にあったとしても、それを実現できる/実行に移せるとは限らない、ということは、多くの人の知るところであるよね。そのことを確認した上で、まずは大いに理想を語るところから始めさせていただいても、良いものでしょうか。

 タイトルは、アンドラーシュ・シフのインタビュー集『静寂から音楽が生まれる』を頭に思い浮かべながら付けさせて頂きました。原題でMusik kommt aus der Stille。このタイトルをどこで初めて目にしたのか、忘れてしまったけれども、それは瞬時に僕の心に残った。おそらく、そこに直感的に強い真実性を感じたからでしょう。音楽は、静寂から生まれる。

 とてもノイズの多い現代社会です。ノイズとは、その直訳の意味での「騒音」だけでなく、ここではもう少し広い意味を指すこととしたい。インターネット上に溢れる沢山の情報、町中を埋め尽くすようになった音や映像、誰々がどうしたこうした等々ほとんど面識の無い人々の噂話等…。思えば、かつては生身の人間からのみ受け取ることのできた言葉、そして生演奏を通してしか生まれ得なかった音楽、といったものが、現代ではさまざまな機器を通して、家にいながら、さらには道中に於いてさえ、ほとんど自由に、得られ、再生できるようになって、僕だって何とも嬉しいけれども、今一度音楽家として、真の静寂が多分にあった時代のことを考えてみる。
 もちろんそれは、戦争、革命、飢餓、疫病等々が今以上に蔓延していた時代であれば、平穏を得ることは困難だったのだろうと思うけれど、少なくとも静寂に関しては、今よりずっと多くそして深くあったに違いない。例えば時に戦場を舞台とした映画で、戦場ですら(であるからこそ)の余りに美しい夜の静寂というものが描かれたりするように…。

 「音楽は静寂から生まれる」を真とする仮定に立つならば、ここに1つの大きな矛盾が生じる。それは、音楽家こそが最も静寂から遠い職業であるということだ。音楽活動が“忙しく”なればなるほど、毎日毎日、あぁあれもこれも練習しなきゃ、これこれの音源も聴かなくっちゃ、あ、今夜はあの演奏会に行くべきだったか…といった生活がおそらく当たり前のこととなる。となれば、私たちの1日のほとんどは音に埋められていることになるし、事実、僕の場合もそうである。

 そこで今、パリからオランダへと向かう3時間の電車、ふと思い立って、一つの音も流さぬことを心に決め静寂に関してうんと考えながらこれを書くこととした。深い理由はないけれど、突然「静寂を書かねば」と思ったのだ。物事は時に、何の予兆もないが突如降りてきたアイデアに従うことが大切である。電車が線路を動く音と、通路反対側の方がポテトチップを食う音、のみが聞こえる。真なる静寂、ではないが、強い意味を持たぬ音々が心地いい。意味のない、ということが、時にこんなにも良い意味を持ちます。

 音に溢れた現代、しかし一つの大きな例外がある。眠りの時間だ。つまり、日ごろ余程騒音に悩まされる環境にてあなたが眠っていない限り、というか、もしそうであったとしても、一度眠りにつくことができれば、そこは音のない澄んだ世界。夢の中に登場する音もあるかもしれないが、それらはあくまで全て、私たちの想像上のものである。

 これまで幾度か幾つかの媒体で、書いたり話したりしたことがあるのだけど、僕の練習スタイルは専ら朝型だ。それには余りに大きな理由がある:真の静寂を破る唯一の時間が、朝だから。朝、初めてピアノの音が夜の長い静寂を破り、練習の世界へと丁寧に入ってゆくあの時間、それは、あまりにも感動的だ。何というのだろう、赤ちゃんが、オギャーと生まれて、初めてこの世界を感じた時、確かに僕らは泣いてはいたけれども、世界と最初に出会う大きな感動があったじゃない。まぁ僕は実際それを覚えてないんだけど…でも、あったに違いない。それに近い感動が、毎日朝にはあると思う。朝の、静寂から何かが立ち登ってくる、あの美しい時間を、今、思い出すだけでも幸福になれる。やめられないのです。
 どうか朝だけはいつも、全てを投げ出して練習がしたい。そしてこの先もこの習慣はきっと、ずっと変わることがないのだろうなと思う。

 ところで、何故だかことごとく夜型の友人にばかり囲まれてきた。「いや今から活動を始めるの!?」という人たちばかりに。
 夜が最も生産的になれるという人々が、僕は昔から不思議で仕方がなかったのだけれど、今よく考えてみるに、彼らの中では僕と逆のプロセスが起きているのかもしれない、つまり、「日中の喧騒から、夕食の時間を過ぎて、静寂が訪れてゆく」。僕にとっては静寂から全てが始まるが、彼らにとっては、日常から物事が始まりそれらが「静寂に帰ってゆく」のだ。人それぞれ、静寂の、2通りの異なる捉え方がある。

 日常の静寂に関し、もう1つ例を挙げるとするならば、僕は日欧間の12時間のフライトが好きだ。そうした長めのフライトを経て心が整うように感じる人、少なくないと思うのだけれど、それはもちろん、そこが存分に遮断された空間だから。機体が空を切る雑音に機内は包まれていたとしても、そこにはほんとうの意味での「静寂」がちゃんとあるのだ。通信がない、目の前に沢山の物を置けない、多くの場合は暗闇である、等々の理由から。
 時々フライトで隣になった人の中に、何をするでもない、映画も見ずゲームもせず本も読まずイヤホンだって付けずに、ただ座って過ごすことのできている人を、見かけることがある。それって、とても一目置くべきことだと、僕はいつも思う。無、闇、静寂、そうしたものに身を委ねて、すなわち今や当たり前となってしまったジャンキーな多くの刺激に頼ることなく時間を過ごせること、実は、とても難しいことでない??

 静寂を限りなく深く感じてゆくことは、孤独な行為である、とされる。うん。それはある一面においては確かに。だけれども、それは常に正しいとは言えないんじゃないか、と思っている。静寂をうんと感じたのちに、音楽のことが少し分かる時が、ある。音楽が分かるということはイコールある意味では人が分かるということだけれど(音楽を書くのが人である以上)、その時に覚えるあの満たされた感覚、それは、いつだって、孤独などという感覚からはほど遠いものであった。
 より身近な例でいえば、現実世界でのコミュニケーションにおいても、きっと同じことが言える。ひととの意思疎通の最も深い形はきっと、深く深く聴く、ということ、若しくは、もしかしたら何も言わぬ、ということでさえあり得るのではないか。必ずしも賑やかで途切れない会話の連続が無くっても…。
だから思うに、静寂とは、あるいは静寂による孤独は、その先の深い愛への準備である。

静寂を知ろう——。

 さぁ、ここからまとめに入るだけれど。自らを思い切り省みます。いま、こんなにも上記の如く、静寂を悠々と語っておきながら、僕の近頃の実際の生活はそんなものじゃなくって、ただのバタバタでポンコツでぐちゃぐちゃな日々であった!忙しかった、且つ、忙しいことを言い訳としていた、の両方の理由により。そう、冒頭に書いた通り、理想論を語るのみでよければ、こうも自信を持ってできてしまうのだ!
 しかしそんな不一致が少し恥ずかしいですから、しばらくの間、意図的であってもいい、静寂を強いて作る生活を送ってみたい、と思った。僕は実のところ非常に怠惰な人間で、こうしてどこかに何かを宣言しない限り、何も実行に移さなくなってしまう性分であって、だから今回がとてもいい機会である。日ごろの、水が流れる音、食器の置かれる音、スリッパが床をこする音、それらすべて、いわゆる生活音、だね、そうした音を、できる限りつよくつよく、感じて生活していってみよう。それは文字通りの”静寂”ではないかもしれないけれど、少し広い意味での、静寂を重んじる、ということであるに、違いないから。

 静寂から音楽が生まれる、のならば、音楽はやがてまた静寂へと帰結してゆく。物事っていうのはいつもそうして対となる面を行き来する物であると、僕は思う。それならしばらくは、音の「ある」方の面ではなくって音の「ない」方の面を、じっくり見てみようと、決心しながら、僕は静かに——そう、静かに!である——筆を置いたのであった。

務川慧悟 & ナターリア・ミルステイン デュオ・リサイタル
2024.6/14(金) なら100年会館 

東京芸術劇場リサイタル・シリーズ「VS」Vol.9
務川慧悟 × ナターリア・ミルステイン

6/18(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール 
東京芸術劇場ボックスオフィス 0570-010-296
https://www.geigeki.jp

東京フィルハーモニー交響楽団
第1000回 オーチャード定期演奏会

6/23(日)15:00 オーチャードホール
第1001回 サントリー定期シリーズ
6/24(月)19:00 サントリーホール
第162回 オペラシティ定期シリーズ
6/26(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
問:東京フィルチケットサービス03-5353-9522 
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