キット・アームストロング(ピアノ)

500年の歳月に臨み、人間の創造性への信頼を謳う

(C)JF Mousseau

 「東京・春・音楽祭」の愉しみは多岐にわたるが、例年ピアノ音楽の分野でも大胆な取り組みをくり広げてきた。歴代の意欲的なシリーズのなかでも来たる春、キット・アームストロングの叡智が拓く「鍵盤音楽年代記」の5日間は最大規模の博覧会となる。クラシック音楽はこの世界になにをもたらし、今後をどのように拓くのか。500年の歳月にわたる壮大な鉱脈を凝縮して辿り、西欧の芸術創造の精神の来し方行く末をみつめる大航海である。

 「クラシック音楽への私のアプローチは、博物館や美術館で啓発されるのに近いものがあります。ミュージアムとは偉大なる人間性の表現の集合体で、それぞれの時代が前時代よりも遠くを見据えている」とアームストロングは語る。

 「クラシック音楽とはつまり、人類は世代を超えて継続的に歴史を理解し得る、という考えに寄せる芸術家たちのオマージュなのです。そこには幾重ものレイヤーがあり、第一の層は先行して人々が達成したことに本能的に触発されています。次に、それらの作品の内部には時代を超越した美学がある。もうひとつのレイヤーはおそらく、現代の私たちではもはやそれは可能ではないということです」

 コロナ・パンデミックのさなか、2020年3月から7月にかけて、アームストロングはお気に入りの作品を演奏し、計100本ほどの映像をインターネットで毎日配信していった。そこで披露した名作や知られざる佳曲も、「年代記」の随所に織り込められている。

 「こうした事態が起こるのは芸術史上初めてのことではありません。クラシック音楽とともに、私たちは時代を超越した素材と文化を扱っています。私にとって興味深いのは、今日の経験に関連づけて変化を試みることではなく、むしろ、それはつねに同じ言語で、いまもこれからも変わらないということ。人間の知覚と美学的な愉楽に関する、普遍的な真実を理解し得るということなのです。この期間に、演奏の実相が変わったということはない。とは言え、件のヴィデオ・シリーズで、フランスの美しい教会から、ふだん演奏会では弾くことのない作品を配信し、直接的なかたちでみなさんと共有できたのは幸せな経験でした。また、2020年12月から翌年3月にかけて隔絶した台湾にいて、多くのコンサートを代役で演奏した体験も大きかった。私はそこで音楽の力というものを学びました、クラシック音楽が理解を打ち建てるだけのものではなく、人々を本当に情熱的にさせ得るものだということを——」

 東京での年代記は、1520年から2023年まで、100年ごとに5つのプログラムを編み出し、各章を固有のテーマのもとで展望するキュレーション。イングランドの天才たちが拓いた【The Golden Age】から始め、バッハやクープランらの多様な【Contrast】、ベートーヴェンにいたる【Enlightenment of heart and mind】、写真や科学の近代に生まれた【Visions】を経て、ソラブジや武満徹、自作も含む【Among all Cultures】で現在へと漕ぎ着く。

 「それぞれの世紀でストーリーをひとつずつに絞り込みました。今回のプログラムの要点は、客観的な歴史書を編むことではなく、異なる聴きかたを啓発できればという考えですから。なにより重要なのは、共感をもって、ポジティブな方法で、つまり私自身の音楽への愛をもってコミュニケートすること。自分が暮らす現在から思考しつつ、私たちは蓄積された過去へと開かれた多元的な社会に生き、未来へと入っていくのです」

 プログラムは500年の歳月を旅するが、キット・アームストロング自身はまだ30代に入ったばかりだ。

 「多くのことが変わったと思いますが、多くのことは同じままです。私がここ何年かで特に意識するようになったのは、自分自身のことは置いて、クラシック音楽のためになにかをしたい、さらなる発展のための礎を創り出したいということです。多くの対立を通じ、しかしある意味では愛を通して、未来永劫に伝達される価値のある変遷を私たちが創り出してきたという事実こそがなにより重要なのです。今後もそれが起こるための方途を開いておきたい。後世の人々のためにできるかぎり良い世界を創ろうと、史上かつてないほど努力する時代に、私たちはいま生きているのですから」
取材・文:青澤隆明
(ぶらあぼ2023年2月号より)

【Profile】
ウィーン・フィル、ドレスデン国立歌劇場管など世界有数のオーケストラや、ティーレマン、ブロムシュテットなどの指揮者と共演する一方で、作曲家、オルガニストとしてもキャリアを築いている。1992年ロサンゼルス生まれのアームストロングは、フィラデルフィアのカーティス音楽院とロンドンの王立音楽院で学んだ。7歳の頃チャップマン大学で作曲を、カリフォルニア州立大学で物理学、のちにペンシルヴェニア大学で化学と数学、インペリアル・カレッジ・ロンドンで数学を学んでいる。さらにパリ第6大学で純粋数学の修士号を得た。本拠地であるフランスのサント・テレーズ教会では、地域および世界に向けた学際的なプロジェクトを展開し、国際的な注目を集めている。

Information】
東京・春・音楽祭 2023
キット・アームストロング(ピアノ) 鍵盤音楽年代記(1520-2023)Ⅰ〜Ⅴ

2023.4/1(土)16:00 Ⅰ【1520-1620:The Golden Age】
4/4(火)19:00 Ⅱ【1620-1720:Contrast】
4/6(木)19:00 Ⅲ【1720-1820:Enlightenment of heart and mind】
4/8(土)16:00 Ⅳ【1820-1920:Visions】
4/10(月)19:00 Ⅴ【1920-2023:Among all Cultures】
東京文化会館(小)

問:東京・春・音楽祭サポートデスク03-6221-2016 
https://www.tokyo-harusai.com
※プログラムの詳細は上記ウェブサイトでご確認ください。