Aからの眺望 #11
季節はずれの枯葉

文:青澤隆明

 ここは楽園か――。ふと、そんなふうに思ったのだった。雨上がりの芝生のうえ、鳥たちは鳴き、風と木々が囁き、陽光が枝の間から降り注いだ。ピアノの響きが自然にまざって、ゆったりと流れていった。

 昨年の夏の終わり、創設されたばかりの「富士山河口湖ピアノフェスティバル」をたずね、野外での「ピクニック・コンサート」を聴いていたときのことだ。木陰に特設された木づくりの舞台の上で、辻井伸行がピアノを弾いていた。音楽祭のアーティスト・イン・レジデンスを精力的に務める辻井のまえには、高橋優介と山中惇史のアン・セット・シスが演奏した。

 夏がきてもずっと遠出を控えさせられたコロナ禍にあって、こうして野外でゆったりと音楽に触れるのは、素晴らしい心持ちだった。家族連れも含めて、さまざまな年代が思い思いに集い、マスクは着けたままでも凝り固まった心身を、ピアノの音が溶け込む開放的な空気のなかにほどいていった。

 だから、2022年もあの空気をいっぱいに吸えるのを楽しみにしていた。ところが台風15号が、場所によっては観測史上最多の降雨を伴い、俄かに接近してきたのである。開催が予定される9月24日の前夜になって、昼の「ピクニック・コンサート」が中止となったと連絡を受けたときには、とてもがっかりした。それでも翌朝の東京からの特急は無事に運行されたし、15時開演のコンサート「辻井伸行 山下洋輔 加古隆 PIANO+」はそのまま開催された。きっと強烈な晴れ男がいたに違いない。

2022年9月24日 河口湖ステラシアター 「PIANO+」辻井伸行&フレンズ

 河口湖ステラシアターでの「PIANO+」は、川久保賜紀 遠藤真理 三浦友里枝トリオが、「ラストエンペラー」を幕明けに、坂本龍一の名曲を織りなして始まった。加古隆クァルテットは、映画や映像のために作曲された加古作品を、しっかりと余情豊かに紡いでいった。簡潔だが素直な深みを宿して。辻井伸行&フレンズは、遥かなる先達コンポーザー=ピアニストのショパンに向き合い、ピアノ協奏曲第1番をピアノと弦楽五重奏の室内楽版で、輝かしく明快に聴かせていった。そして、4時間にもおよぶコンサートは、山下洋輔スペシャル・カルテットの圧巻のプレイで結ばれた。

 テナーサックスとフルートの川嶋哲郎、ベースの坂井紅介、ドラムスの本田珠也だけでリハーサルは敢行され、ピアノの山下洋輔は不在。駆けつけてすぐ本番という過酷な状況となった。すべては台風のせいである。18時すぎにきちんと舞台に姿を現した山下洋輔は、事の次第をまず語り出した。名古屋からの新幹線が遅々として動かず、車中泊の末に、14時頃ようやく三原で下車し、そこから車で乗りつけて、「18時間の遅刻」となりました……。

2022年9月24日 河口湖ステラシアター 
「PIANO+」山下洋輔スペシャル・カルテット

 しかし、こういうときこそ、なにかが起こる!そう言わんばかりに、山下洋輔渾身の演奏には、鬼気迫る存在感が漲っていた。最初の「For David’s Sake」からそのピアノは快調で、達人たちとともに大きな音楽を生み出していく。「このメンバーではあまりやったことがない」という1969年の起爆作「GUGAN」では鮮烈なフリージャズを焚きつけ、岡本喜八監督作のために書いた「幻燈辻馬車」ではリリカルに幻想や郷愁を綴っていく。スタンダートの「枯葉」を繊細かつ自在に歌い上げると、ニューオリンズのリズムに乗った「Groovin’ Parade」で陽気に開放的に闊歩した。カルテットの面々は猛者ばかりで、それぞれに自在を絶妙に極めつつ、繊細にして鉄壁のアンサンブルを鋭く切り拓いていった。念のため記しておくと、山下洋輔は80歳。いかに凄腕を揃えたとはいえ、怖るべき胆力と凄絶な集中力である。大人の名人芸と存在感が拮抗した鮮烈なジャズ対話が、秋の宵の大気のなか、堂々と冴えやかに燃え盛った。

 終演後の楽屋で、久々に再会した加古隆に山下洋輔が話していたが、両雄には1980年代初頭に富樫雅彦を交え、「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」で共演した古い思い出もあった。それこそは幼い私が、初めて生で触れたジャズだった。しかも、いきなりのフリージャズ。初めてだし、なんだかわからないけれど、楽しかった。コンサートが終わってトリオのお姿が近くにみえたので、父にそそのかされるままに、サインをもらいに行った。こどもの頃はなんでもできるのだ。山下さんは親切に応じてくださり、「ぼく、ピアノ弾くの? まねしちゃだめだよ」と微笑まれた。素直なこどもだったらしく、そういうわけで、私のジャズ・ピアニストとしての人生は始まりにして即座に断たれてしまった。それも台風のさなかのできごとだった。両親と車で向かったが、山間の道が落石で通行止めだったこともよく覚えている。

2022年9月24日 河口湖ステラシアター 辻井伸行 山下洋輔 加古隆 PIANO+

 さて、富士山の麓に話を戻すと、延期された「ピクニック・コンサート」は翌昼に晴れて開催された。辻井伸行が「トロイメライ」「喜びの島」に続き、カプースチンのコンサート・エチュードを熱演した。「月の光」のときには、静かに風が流れ、紋黄蝶も飛んできた。

 少しだけ日が翳りをみせるなか、山下洋輔がサプライズで登場。「季節はずれなんですけれど……」と彼は言った、「枯葉です」。そうして、昨夜とはまた違う「枯葉」をピアノ・ソロで舞わせた。得意の肘打ちも交え、乱れも踏みしめながら。ちょっと「季節はずれ」かもしれないのは、もちろんセンチメンタルでもあるが、もっと熱く力強いなにかが沸騰しているところだ。馴染みのメロディーで歩み出すと、山下洋輔は愚直なほどにまっすぐ、荘厳なストーリーを物語っていった。その2時間後に開演されたコンサート「PIANO & WINDS」で、大井剛史指揮佼成ウインドオーケストラと共演した「ラプソディ・イン・ブルー」もそうだったが、ときに転んでも躓きそうになっても前へと進むのがジャズの胆力なのだ。セッションであれコンチェルトであれ、なんであれ、真正面で受けて立つのが山下洋輔の凄みであり真骨頂であった。芝生の上に座って、悠然と風に運ばれる雲を見上げながら聴くそのピアノは、どこまでも自由に広がるように思えた。ぐるりとあたりを見回せば、広場を囲む木々が時折はらりと葉を落としたりもしている。

 「枯葉」が燃え終わり、辻井伸行が興奮した面持ちで山下を称えた。それから、半ば強引に連弾に誘い込むように低音側に座ると、気持ちのはやるままに「ボレロ」を叩き出した。昨夜の山下洋輔スペシャル・クァルテットの余熱が、辻井の熱き心を強く湧き立てたに違いなかった。このアンコールは、一夜をかけて眠ることのなかったその興奮の真正直な証しだったに違いない。

 小ぶりのピアノを全力で打ち鳴らすように、辻井はふたりの「ボレロ」の冒頭からフォルテを突きつけた。演奏を高揚させるのは音量ではなく、即興の発展や加熱だけでもなく、なによりも昂ぶる心の熱気だ。畏敬と邂逅の喜びに導かれた、真剣な対決の放熱があった。それも野外、まさしく場外乱闘そのものだ。山下の肘打ちが乱れ飛ぶとき、トンボがくるくると踊り狂うように芝生の上を飛んでいた。

 ピクニック・コンサートはそうして、冷めやらない熱気をおいて終わった。台風の影響で大きな困難もあったが、しかし演奏が始まってみれば、天候や環境やさまざまな事情をまるごと呑み込むようにして、音楽を求める心はその場かぎりの燃焼をみせていくのだ。

 帰り道、足もとに広がる落葉をみた。葉という葉はめいめいに色づき、決して枯れてはいなかった。

2022年9月25日 河口湖ステラシアター 辻井伸行 山下洋輔 加古隆  PIANO&WINDS

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。