Aからの眺望 #9
最後から2番目の祈り
――ラドゥ・ルプーをおもう

In Memoriam Radu Lupu 1945-2022

文:青澤隆明

(c)Pekka Saarinen

 おわかれは言っていない。それが最後になるなんて、まったく思いもしなかったから。

 それから、いつのまにか時が過ぎるうち、ああ、もう会えないのかな、と思うことは、あった。だんだん、そんな気配が強くなってくるようだった。

 いったい、いまこうして、なにを書いているのだろう? いろいろなことを先延ばしにして、それで、すべてが手遅れになる。でも、ほんとうにそうなのか。大事なことに関しては、ずっと手遅れだったのではないか。

 ラドゥ・ルプーの演奏を私が最後に聴いてから、5年が経った。この5年間はなんだったのか。最初の半分は次の機会を心待ちにうかがっていた。後の半分は、心ひそかに、ひたすら健康と平穏を祈った。だんだん、もう会えないのだ、ということがわかってきた。

 2017年のヨーロッパでのリサイタル・ツアーが、私が聴いたルプーの最新の記憶となってしまった。それから2年が過ぎて、かの音楽家はひっそりと引退した。2019年6月21日、という日付を、私がはっきりと記憶に刻んでいるのは、その最後のコンサートの場にいなかったからだ。そうして、認めにくいことだが、私はひとつの情熱を失った。

 それからというものルプーはピアノにまったく触れていないらしい、ということが人づてにきこえてきた。彼にとって、もはや時は満ちていたのだ。その後、パンデミックが起こり、長く収まらないでいるうちに、戦争までもはじまった。ヨーロッパは一気に遠のいたように感じられた。その間もよくルプーのことを思った。

 2022年4月になって、彼がこの世を去ったときいた。悲しい知らせは、ルプーに近しい知人からすぐにやってきた。それは、ほとんど無言電話にも近い、空白のメッセージだった。ぽつぽつと電話で話しながら、怖れていたいつかが、たったいまやってきてしまったということを、すぐには受け容れられないでいるのが、おたがいにわかった。それはそうだろう。でも、もう誰もその気高い魂をいたずらに引き留めてはいけないのだと思った。

 大きな空白が落ちてきた。静けさ以外では、どうすることもできない余白が、私の生きる時間にごっそりと穴をあけた。しかし、それと同時に、私の気持ちはひとつの音楽に重なるように、ひとすじにまとまっていった。

 しばらく、なにも聴かなかった。ルプーのレコーディングだけでなく、とくにピアノに関するものはなにも。仕事で必要があるものだけを、申し訳ない言いかたになるがしかたなく聴いただけだ。

 かぎられた時間であれ、ラドゥ・ルプーという音楽に出会えたのは、私の人生にとってかけがえのないことだった。その音楽はときに魔法のように生じ、だからこそ冷厳に過酷でもあった。そして、彼という人間に触れることができた幸せは、私にはいつまでもあたたかな記憶だ。誰にも入り込むことができない場所を強情に保ってきた人だからこそ、そのやさしさはやわらかに溢れていた。うまく言えないのだが、それはてのひらの感じに近かった。逞しく、厚く、彼の弾く音楽ほどには決して大きくないが、しっかりした手の。

 悲しいことがありましたね、なにか書きませんか、と言ってくれた人もいた。しかも、すごく言いにくそうに、おずおずと口にするようにして。それがとてもありがたかったので、少し時間をください、と私は答えていた。性急になにかを言うようなときでもなく、そんな気持ちにもなれなかったし、ルプーはそもそもそういう人でもない気がするから。

 そうこうしているうちに、春は夏になった。しかも、ばかみたいな暑さである。そうしていま、ようやくこれを綴っている。ともかくも季節を感じてみれば、ルプーについて思い出すのは、彼がチャイコフスキーの『四季』を弾いたときのことだ。

 私が聴いた2017年初夏のリサイタルはすべてひとつのプログラムで、だから続けて4度おなじ曲目を聴くことができた。ルプーは『四季』の全12曲を順番どおりに毎月弾いていった。アムステルダムの夜は、前半の6ヵ月をていねいに弾いたが、夏は慌ただしく過ぎた。そして、10月には感傷だけではない透徹した悲哀が美しく響いた。

 楽屋に押し寄せる多くの知人に囲まれたかの音楽家に、私はすぐになにを言ってよいかわからず、ひとこと「10月」とだけ口にした。わずかな間をおいて、「10月……、11月のまえだね」とその人はおどけたように言った。

 そんな絶妙の間にも、ルプーという人がいちいち潜んでいた。こうした些細な場面もまた、ぜんぶが昨日のことのように思い出される。あれは、いつの昨日だったのだろう?

 そう、それはベルガモでグリゴリー・ソコロフを聴いた日の前日だった。次の夜には、チューリッヒでピオトル・アンデルシェフスキのリサイタルを聴いた。そして、次の日にはウィーンにいた。ホテルにチェックインして、カフェで友人と落ち合って、それからムジークフェラインで、ふたたびルプーのリサイタルに臨んだ。2017年5月31日のことである。その2日後、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールで聴いたのが最後になった。

 ウィーンの夜、ルプーの演奏は、ほんとうに特別だった。ハイドンのヘ短調の「アンダンテと変奏」にはじまり、『四季』の多くの月も愛おしむように弾かれていった。そして、シューマンのファンタジー……。劇的なはじまりから、すべてが第3部に向かって、ひそやかに昇華していくように歩まれた。全篇が祈りのように奏でられていた。そこには、天国のような清純があった。

 愛おしき者の魂と連れ立ち、あらゆる悲しみや苦しみや喜びを超えて、彼方へと安らかに見送るように、ルプーはそのとき自らを音楽にして、そのなかを行けるように橋を架け、天空への梯子を渡した。このときファンタジーの道行きのすべては、そのように歩まれるべくして、澄みやかに歌われていった。私にはどうしてもそのように感じられてならないのだ。そのときも、いまとなっても。少なくとも、あのとき私は、そのようにしてルプーの音楽と歩み、ともに浄化されていった。

 音楽は虹のようなものだから、そのときが過ぎれば、たちまち消えてしまう。そのときは、そのときでしかなく、そこでしか起こらない。けれど、あの光はそれを伝えた空気のなかに溶けている。そのように、私のなかには、あのときルプーが渡した透明な橋がずっとある。そのなかを彼とともに伝っていくものがあったことを知っている。

 ラドゥ・ルプーが亡くなったと聞いたとき、私の心にまさに鳴り響いていたのも、彼がウィーンで弾いたファンタジーだった。いや、あれからずっと鳴りやむことはなくて、そのときにまた熱く湧き上がってきたのだ。

 さまざまな思いをひとすじの光に収めるように、私はその至純の響きをみつめている。心清らかに澄みきって、あの橋を渡るように、かの人が音楽にかえっていくことを、心ひそかに祈る。
(ぶらあぼ2022年10月号より)

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。