
長年ドイツでの演奏と指導に携わってきた樋口紀美子。現在は日本を拠点に活動し、4月のリサイタルでは叔父・乾春男(1929〜49)とシューマンを取り上げる。乾作品には6歳でピアノを始める前から親しんでいたと樋口は振り返る。
「もしかしたら母のお腹の中にいたときから聴いていて、それは叔父の演奏だったのかもしれません」
乾は20歳で夭折。東京音楽学校在学中のわずか1年半で数多くのピアノ曲を残した。乾の死後に生まれた樋口は「私が叔父の曲を弾かなければ」という使命感を長年抱いてきた。しかし、ときにそれが重圧にもなっていたという。
「ドイツでも乾作品を取り上げていましたが、『こんな演奏ではいけない』という悔しさがありました。このたび7枚目のCDに乾を選び、改めて作品と向き合うことで作曲家としての完成度の高さを実感しました」
乾作品の魅力について次のように感じている。
「古典派作曲家の初期ソナタを弾くときのようなテクニックと和声の理解がなくては、美しく演奏することはできません。また、音の響きは近現代的ですが、ロマン派的なファンタジーも潜んでいます。しかし、構造はドイツ作品のように堅固。さらにピアノ演奏法の観点からも卓越しています」
自らの最期を選んだ乾。音楽の中に悲劇性を想像してしまいそうだが、乾作品は病んではいないと樋口は断言する。
「根底にしっかりとした理論があり、爽快で清々しさがあります。文学性もあり、彼が心酔していたシューマンと似ているかもしれません」
二人をテーマにしたリサイタルに叔父も喜ぶのではないかという想いが芽生えた。しかし、当日演奏する「子供の情景」は、樋口にとって長年重荷となっていた曲だった。
「私が9歳のとき、藤田晴子先生はこの曲で、シューマンの激しい感性まで表現するよう求めました。当時の私にとってそれは“怖い音楽”。高校生の頃、そのときの録音を聴き直して『これ以上の演奏はできない』と思い、10年近く悩んでいました」
しかし、最近になって講座で作品を解説したことでシューマンの偉大さを再認識し、過去のトラウマを捨て去ることができたと、樋口の顔は明るい。
「当日は乾の中のシューマンを感じていただきたいです。そして乾を弾きたいと思ってくださる方が増えたらうれしいですね。私の人生は価値のあるものだったと思えます。でも、まだやりたいことはたくさんありますよ!」
樋口の中に生きる乾、そして乾の中に生きるシューマン。三者の対話の響きを感じたい。
取材・文:東 ゆか
樋口紀美子 ピアノリサイタル~シューマンと乾 春男~
2026.4/9(木)19:00 浜離宮朝日ホール
問:ミリオンコンサート協会03-3501-5638
http://www.millionconcert.co.jp

CD『ペルソナ―乾春男の肖像』
molto fine
MF25707
¥3300(税込)
