知られざるもうひとつのベルリン時代
文:中村真人(音楽ジャーナリスト/ベルリン在住)
この11月に行われたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演は、センセーショナルともいえる大きな成功を収めた。その賛辞の中心にいたのは、ベルリン・フィルの首席指揮者として初来日したキリル・ペトレンコその人だった。ツアー期間中、私はSNSでペトレンコに対する熱狂的な賞賛のコメントを数えきれないほど目にし、この指揮者のすごさがようやく日本で幅広く認知されたことに感慨を抱かずにはいられなかった。実はペトレンコにはコーミッシェ・オーパーの音楽監督を務めていたもうひとつの「ベルリン時代」がある。当時を振り返りながら、いかに今日のペトレンコが形作られたのかを見てみたいと思う。
来日公演中のSNSでの反応に気持ちが昂って、私は久々に古いチケットを取り出した。2002年10月21日、ベルリンのコーミッシェ・オーパーで行われたスメタナのオペラ《売られた花嫁》の公演チケット。2002年といえばサッカーW杯の日韓大会が開催された年であり、クラシック音楽界では9月にベルリン・フィルの首席指揮者に就任したサイモン・ラトルの話題で持ちきりだった。だが、コーミッシェ・オーパーの新しい音楽監督に注目が集まることはほとんどなかったように思う。
私自身、その夜誰が指揮するかも知らないまま平土間2列目の席に座った。ところが、暗闇のなかで鳴り響いた序曲に思わず仰け反りそうになった。なんという怒涛の音の奔流だろう。そして演奏にみなぎる熱量の高さと合奏の一体感!その晩、私はオーケストラピットから聞こえてくる音楽に釘付けとなった。一体どんな人が振っているのかと思いきや、カーテンコールに現れたペトレンコは意外にも小柄な人で、親しみやすいチャーミングな笑顔を浮かべていた。私はすぐにペトレンコのファンになった。
それから2007年夏に退任するまで、彼が指揮するオペラを数多く聴いた。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》、《コジ・ファン・トゥッテ》、ヤナーチェク《イェヌーファ》、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》、R.シュトラウス《ばらの騎士》、ヴェルディ《ファルスタッフ》、レハール《メリー・ウィドウ》、《ほほえみの国》、等々。彼が振ると、音楽は生き生きと呼吸し、舞台上の登場人物と一体となって血を通わせた。あの当時、ベルリンに留学している日本人の音楽好きの知人に会うと、「ペトレンコというすごい指揮者がいる」という話題でよく盛り上がったものだ。だが、SNSがまだ主流でない時代、ペトレンコの評判が日本まで届くことはほとんどなかった。何より彼が世界のあちこちに飛び回るスター街道ではなく、カペルマイスターとしてじっくり腰を下ろして仕事をする道を選んだことが大きい。しかしそれが、ペトレンコの才能を育み開花させることにつながったと信じている。
コーミッシェ時代のペトレンコの仕事ぶりは、劇場の当事者から見てどういうものだったのだろう。この歌劇場で長く副コンサートマスターを務めるヴァイオリンの米沢美佳に話を聞いたことがある。「就任当初は、ペトレンコ氏もまだ若かったので、彼の棒にオーケストラが上手く合わせられない場面もあったりしました。でも、大変な努力家なので、できることが次第に増えてくる。『いいものを作り上げたい』ということに対してものすごく熱い人でした。それが今、花開いているのではないでしょうか」
米沢はペトレンコのことをドイツ語の「Fanatiker」という言葉で形容した。「何かを作り上げることに対して熱狂できる人」というニュアンスだ。ペトレンコの指揮ぶりを思うと、とてもしっくりくる形容だが、とはいえ熱狂だけであれだけの音楽はできない。ペトレンコがペトレンコたる所以は、熱狂と緻密さという一見相反する要素が高いレベルで同居していること。「オペラのプレミエの前など、彼は午前中のリハーサルを録音します。午後みんなが休んでいる間にそれを聴き、次のリハでは細かい修正から入るんです」。米沢は当時の仕事ぶりをこう語った。その仕事の流儀は、「とにかく時間を無駄にしない」(ペトレンコのアシスタントを務めた指揮者の沖澤のどか)、「予定時間より早くリハーサルが終わったことは一度もない。常に限界を突破しようと試みていることが伝わっている」(ベルリン・フィルのインテンダント、アンドレア・ツィーチュマン)など、現在の関係者が語るペトレンコ評とぴたりと合致する。
コーミッシェ・オーパーの音楽監督時代、ペトレンコは年に数回、シンフォニーコンサートも指揮していたが、残念ながらこちらはあまり聴いていない。コンサート指揮者としての彼を初めて体験したのは、2005年7月、フィルハーモニーで行われたコーミッシェ・オーパー管との公演である。チャイコフスキーの《イタリア奇想曲》、ピアノ協奏曲第1番(独奏はボリス・ベレゾフスキー)、レスピーギの《ローマの祭り》、《ローマの泉》というプログラムだったが、なんと言っても冒頭の《イタリア奇想曲》が圧巻だった。ペトレンコはユダヤ系であることが知られているが、そのときは彼が紛れもなくロシア出身の音楽家だと実感した。巨視的にして魔術的。あの国が産んだ巨大な芸術家の系譜につながるような凄みをみなぎらせていたからである。翌2006年2月にはベルリン・フィルと初共演し、2007年には『オーパンヴェルト』誌の年間最優秀指揮者に初めて選ばれた。こう振り返ってみると、2002年から07年までのコーミッシェ・オーパー時代は、ペトレンコが主にオペラを通してドラマトゥルクへの傑出した才能を育み、後の躍進につながる上で重要な意味を持っていたことがわかる。
オペラというきわめて人間臭い芸術ジャンルを長く活動の拠点としてきたことが影響しているのかわからないが、ペトレンコがベルリン・フィルで作るプログラムには人間存在へのあたたかい眼差しが感じられる。陰影ゆたかなプログラムを提示し、「あまり知られていないけれど、こんな魅力的な作品がありますよ。この作曲家の音楽も聴いてみませんか」と聴き手をやさしく誘ってくれるのである。例えば、今回の来日公演でR.シュトラウスの《英雄の生涯》に同時代人のマックス・レーガーの作品を対峙させたのがそうだし、モーツァルトとブラームスの交響曲の合間に今日的な状況を予言したかのようなアルバン・ベルクの作品を織り交ぜたのもそのような意思からだろう。
ベルリンでの過去2シーズンのプログラムを振り返ってみても顕著だ。2022/23年シーズンの「ロストジェネレーション」というシリーズでは、ハルトマン、シニガーリャ、コルンゴルトなど、戦争や迫害を通じて埋もれた20世紀の作曲家たちに光を当てた。昨年のアメリカツアーで、マーラーの交響曲第7番と並べてコルンゴルトの交響曲嬰へ調をメインプロに選び、成功に導いたのはまさにペトレンコの面目躍如。もちろん、彼がベルリン・フィルと共演したチャイコフスキー《マゼッパ》、《スペードの女王》、R.シュトラウス《影のない女》といったオペラの素晴らしさは言葉を失うほどだった。年明けの2024年1月末には生誕150年を迎えるシェーンベルクのオラトリオ《ヤコブの梯子》という注目すべき公演も控えている。
悲しいことに世界はますます混沌としているが、キリル・ペトレンコが指揮する音楽で私たちは現実から逃避することができ、時には現実への感覚を研ぎ澄まされる。ペトレンコという謙虚で控えめなリーダーとこの時代を共に歩めることを嬉しく思う。