2025 高坂はる香のピアノコンクール追っかけ日記 from ブリュッセル2
取材・文と写真:高坂はる香
5月12日から6日間にわたって行われたエリザベート王妃国際音楽コンクールピアノ部門のセミファイナル、17日夜にすべての演奏が終わり、日付が変わった午前0時半すぎ、12名のファイナリストが発表されました。

Yuki Yoshimi 吉見友貴(日本 2000)
Nathalia Milstein(フランス 1995)
Rachel Breen(アメリカ 1996)
Valère Burnon(ベルギー 1998)
Nikola Meeuwsen(オランダ 2002)
Sergey Tanin(ロシア 1995)
Arthur Hinnewinkel(フランス 2000)
Jiaxin Min(中国 1996)
Shiori Kuwahara 桑原志織(日本 1995)
Mirabelle Kajenjeri(フランス 1998)
Masaya Kamei 亀井聖矢(日本 2001)
Wataru Hisasue 久末航(日本 1994)
日本勢は6名のうち4名がファイナルへ。
彼らはみなそれぞれの個性が輝いていて、誰が次に進めるのかまったくわかりませんでした。会場でも、今年の日本のピアニストはすごいね!とたびたび声をかけられたほどです。一方で、アジア勢という意味では中国が一人で韓国がゼロという、近年のコンクールの傾向からすると珍しい結果となりました。
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60名→24名という狭き門を通過しながら、うち2名が残念ながら健康上の理由で棄権という状況でスタートしたセミファイナル。各人、40分のリサイタル、指定のモーツァルトの協奏曲から選択した1曲という、2ステージを演奏します。
とくにリサイタルは、新作課題曲を含む2プログラムを提出し、そのうち一つが選ばれて29時間前に知らされるという、再び試練を課してくるスタイルです。

新作課題曲は、セルビア生まれでバルカンの民族音楽のバックグラウンドがあるという女性作曲家、Ana Sokolovićの「Two Studies for Piano」。「Fog」と「Dance」からなり、2曲の演奏順は奏者に委ねられています。また、自身で判断してppからfの間でダイナミクスをつけること、ペダルを踏むことをためらわないようにという注意書きがあり、実際、譜面に書かれた強弱の指示は多くないので、かなり自由度の高い作品といえます。
鍵盤下を叩く動きが目立ったと思いますが、あの部分には「鍵盤の下をノックするand/or ペダル(s)を音を立てて踏んで離す」という指示があります。それぞれの奏者が、音楽的な要素はもちろん、運指や譜めくりとの兼ね合いで判断していたようです。
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初日にコンチェルトの演奏順がまわってきた吉見友貴さんは、モーツァルトのピアノ協奏曲第15番を演奏。前回参加時と同じ曲にしようか迷いながらも、本番でまだ弾いたことのないこちらでの挑戦を選んだとのこと。しかしその選曲が吉見さんの輝かしい音によく合い、オーケストラと呼吸を合わせて進んでいく演奏がとても爽やかに響きました。
リサイタルでも、初出しだったというブラームス「ヘンデルの主題による変奏曲」で、変奏曲ごとにさまざまな風景や感情を味わわせてくれました。
エリザベートは挑戦が2回までと決まっているそうで、そのラストチャンスで、ついにファイナル進出です。

同じセッションで演奏した太田糸音さんは、ピアノ協奏曲第9番を演奏。1楽章は少女のように、2楽章は成熟した女優のように、終楽章は軽やかに歌い走り抜けるように、さまざまな表情を見せます。
リサイタルも、シューマンのピアノソナタ1番で憂いのあるやわらかい音、華やぎのある音のコントラストがとても魅力的に映りました。丁寧な美しい音楽を聴かせてくれただけに、ファイナル進出がならず、とても残念です。
ただ、セミファイナルの演奏後、太田さんが、「コンクールへの準備と本番を通してやっと自分のことを少し受け入れられた、好きになれた」と、キラキラした目で話してくれたことを思い出します。

もしかしたら、これこそが一つの最高のコンクールの“利用法”なのかもしれない。結果に深く傷つくかもしれないリスクをとりながら、自身の成長のためコンクールに挑み、苦しくても真摯に音楽に向き合ったピアニストにとって、それ以上のものを得る機会になることを願うばかりです。
オランダのNikola Meeuwsenさんは、エリザベート王妃音楽院のフランク・ブラレイさん門下で、ファイナルに進出。ピアノ協奏曲第9番ではピアノをよく鳴らし、オーケストラとのコミュニケーションもうまくとり、自然な呼吸で魅力的な音楽を聴かせました。
一方のリサイタルでもよく通る音は健在。「ダンテを読んで」はこれでもかというほど重々しく、なんとなくポゴレリッチ的な演奏…という考えが頭をよぎる、個性的な表現でした。

1次予選の演奏も魅力的だった中国のJiaxin Minさんは、ジュリアードののち英国王立音楽院で学ぶピアニスト。
モーツァルトは、表現は美しいながら音が非常に繊細という印象でしたが、ソロのリサイタルのほうではその繊細な音が際立ち、ブゾーニのソナチネ第2番、ベートーヴェンのソナタ第28番で、クリアかつ華やかな表現を聴かせてくれました。ファイナルに進出です。
フランスのMirabelle Kajenjeriさんは、ブリュッセル王立音楽院、ハノーファー音楽大学、ウィーン音楽大学で学んだピアニスト。彼女もまたブラレイさん門下です。印象に残ったのはモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。やわらかく美しい音が際立ち、細かいことよりも自分の音楽を届けることを大切にしていることが感じられました。ファイナルに進出。
桑原志織さんはピアノ協奏曲第17番を演奏。冒頭からボリュームのある音が響き、最初から最後まで細かいところもはっきりと音と感情が伝わって、その余裕のテクニックと相まって、聴いていて安心感があります。
リサイタルは、堂々とした表現でドラマを描いた「ダンテを読んで」、時折民族音楽の香りが漂ってきてハッとさせられた新作課題曲と、スケールの大きな音楽でファイナル進出を果たしました。

日本勢は二人ずつ続けて演奏順が回ってくる形となりましたが、同じセッションで演奏した中川優芽花さんは、まったくタイプの異なる魅力の持ち主。モーツァルトのピアノ協奏曲第9番は、コロコロと愛らしい音で表情を変える表現が楽しく、オーケストラと一緒に駆け抜けていくような演奏。
リサイタルでも、時に柔らかく歌いながら、みずみずしくキレのよいタッチを駆使して一人で掛け合いを繰り広げるのが本当に上手。多くの人がファイナル進出を信じていたなか、予想外の結果だったという声が多く聞かれました。でも私たちは、中川さんの音楽がここでくれたわくわくを忘れません!

ファイナルに進出した亀井聖矢さんと久末航さんも、同じセッションで演奏しながら真逆の魅力を持つピアニストだったといえるでしょう。
亀井聖矢さんは、リサイタルでは新作課題、ベルク、細川俊夫という現代寄りの作品に、得意とする「ノルマの回想」を続けるプログラム。現代作品をドラマティックに聴かせる能力、ロマン派作品で音楽の山をうまく作る能力を存分に発揮しました。
一方のピアノ協奏曲第15番も、持ち前のリンゴン良く鳴る音を生かして抑揚たっぷりの音楽を展開。個々の奏者との掛け合いも楽しむコミュニケーションの取り方で、指揮者のマルディロシアンさんから頻繁に笑顔を向けられていました。

久末航さんは、モーツァルトは9番の協奏曲を選択。余計なもののないまっすぐな語り口で、素材の良さを生かすような端正な演奏です。オーケストラとコミュニケーションは、みんなで手を繋いで走ってゆくようなタイプの一体感でまとめていました。
リサイタルでは、新作課題曲で前述の「演奏順は個々の判断に任せる」という自由を生かし、唯一「Dance」から演奏。続けてバルトークを弾き、ベートーヴェン「熱情ソナタ」といういわゆる王道レパートリーで勝負。静かで熱く、どこか優しさも滲み出るような演奏が、聴衆の支持を集めていました。

一つのセッションで対照的かつユニークな印象を残したのは、ファイナルに進出したこの二人のリサイタル。
フランスのNathalia Milsteinさんは、ネルソン・ゲルナー、アンドラーシュ・シフに師事したのち、現在バーゼル音楽院で学ぶピアニスト。ショパンのスケルツォ4番をラモーの小品ではさみ、新作課題曲につなげるという、わずか40分でリサイタル的構成を実現させた、珍しいケースでした。

アメリカのRachel Breenさんは、2022年までラルス・フォークトさんに師事し、現在ハノーファー音楽大学で学んでいます。新作課題曲の大胆なダイナミクスの付け方にも驚きましたが、普段耳慣れた版にはないパートを含む「ペトルーシュカ」(詳細はご本人に会えたら確認したいと思います)で盛り上げブラヴォーを浴びたあと(すでにここで演奏時間長めの印象はありましたが)、おもむろにピアノに戻ってブラームスのワルツを弾くという、アンコール付きのような構成。コンクールではなかなかないユニークさです。自分のやりたいことのはっきりした方だということがよくわかりました。そしてとにかく音がよく通る。
また、聴衆から盛大な応援を受けていたのが、地元ベルギーのValère Burnonさん。現在エリザベート王妃音楽院で学ぶ、やはりブラレイさん門下(強い!)。昨年ヤマハホールのRising Pianist Concertに出演者の一人として招かれていたようです。
新作課題曲は2曲のコントラストをくっきりと描き、またプロコフィエフのソナタ第8番も、ダイナミックな弾きぶりを生かした起伏に富んだ表現が魅力。演奏が終わるとともに大喝采が沸き起こっていました。ファイナル進出を喜んでいる地元のファンが多いようです。

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ところでモーツァルトのピアノ協奏曲の共演は、ワロニー王立室内管弦楽団、指揮はヴァハン・マルディロシアンさん。ピアニストとしても優れる彼は、モーツァルトを演奏することの怖さについて、こう話していました。
「ほんの少しのアーティキュレーションの不自然さやちょっとしたミスが大きな音で聞こえて、とても目立つ。だからこそ、モーツァルトを見事に演奏できるということは、他のどんなレパートリーでも優れているということ。その逆…たとえばバルトークやラフマニノフを上手に弾けるからといって、古典派の技術が十分でないというのは、よくあること」

実際、モーツァルトはピアニストの試金石になるからと、課題曲に取り入れているコンクールは多くあります。その観点でセミファイナル全体を振り返ると、両ステージで鮮やかな印象を残したコンテスタントももちろんいましたが、どちらかは印象的でどちらかは難しいかな…という例もありました。
これがどう審査に反映したのか。マルディロシアンさんの理論からいくと、モーツァルトのほうが重要視されたのかもしれない気がしてきますが、果たしてどうだったのでしょう。
もとい、モーツァルトは「音の粒が立ってよく聞こえるか聞こえないか」という点に関しては各人差をかなり感じたものの、多くの人が一定レベル以上の完成度に磨き上げていたので、あとは各審査員の美的感性というとてもファジーな部分で評価が分かれたにすぎないのかもしれません。耳の肥えた地元の聴衆や音楽関係者たちの「この人が通らなかったのは意外!」という意見もちらほら耳にしていますが、それも人によってバラバラです。
そんな厳しいボーダーラインをクリアしてファイナル進出の決まった12名は、これから新たに受け取る新作課題曲を誰にも相談せず1週間で仕上げるため、演奏日1週間前から、Chapelの宿泊施設に“隔離”されることになります。
その新作と、各自が選択したピアノ協奏曲を、大野和士指揮 ブリュッセル・フィルハーモニックと共演するファイナルは、5月26~31日の6日間、会場をパレ・デ・ボザールに移して行われます。
♪ 高坂はる香 Haruka Kosaka ♪
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に『キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶』(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/