引退宣言後の井上道義のショスタコーヴィチは、ますます鬼気迫る。といっても刺々しさはなく、むしろすべてのフレーズが豊かに息づき、歌にあふれる。ショスタコーヴィチの音楽は決して無機質、攻撃的ではない。人間性を取り戻すことで本質が明らかになる。そんな信念がN響との第10番のライブ録音からも受け取れる。冒頭の低弦からなんという歌心。真に一音ごとに温もりが感じられ、どんなに大音響の場面でもそれは失われない。浮かび上がるのは、人間ショスタコーヴィチの抱えた緊張と煩悶、そして隠し切れぬ狂気。未踏の境地にある井上、その卓越した解釈の記録。
文:林 昌英
(ぶらあぼ2024年6月号より)
【information】
SACD『ショスタコーヴィチ:交響曲第10番 /井上道義&N響』
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
井上道義(指揮)
NHK交響楽団
収録:2022年11月、NHKホール(ライブ)
オクタヴィア・レコード
OVCL-00839 ¥3850(税込)