予備予選を振り返って
世界的なコンクールの開催が重なり、ピアノファンとしては今年は目を離せない日々が続きます。そのなかでも、最大のイベントである10月の第19回ショパン国際ピアノコンクールまで、あと約3ヵ月。ピアニスト・文筆家で、4〜5月に行われたワルシャワでの予備予選にも足を運んだ青柳いづみこさんに、改めてそこで繰り広げられた演奏の傾向を分析しながら、コンテスタントたちの奮闘を振り返っていただきました。秋の本大会も非常にレベルの高い審査になることが予想され、期待が高まります。

文:青柳いづみこ
2025年はショパンコンクール、エリザベート王妃、クライバーンと大きなコンクールが目白押しで、かけもちのピアニストも多く、準備が大変だったようだ。
7月現在、ショパンは予備予選が終わり、エリザベートは全行程が終了したが、傾向的に正反対で話題になっている。例えば中国からの参加者。ショパンは書類選考の段階から60名以上と圧倒的に多く、本大会にも最多の29名が進出した。一方で、エリザベートはただ一人本選に進出したジアシン・ミン Jiaxin Minも入賞できず、会場にはブーイングの嵐が巻き起こった。
総じてエリザベートではヨーロッパ系が強く、ショパンではアジア系が強かった印象がある。ショパンコンクール自体の傾向としては、2010年のエフゲニ・ボジャノフ、2015年のゲオルギス・オソキンス、2021年のマルティン・ガルシア・ガルシアのような魅力的な個性派が少なく、やや保守的な印象も受けた。
大いに期待された日本の亀井聖矢が、初日早々という出番のせいもあってか落選してしまったのも象徴的なできごとだった。彼はその後、エリザベートでは本選に進み、見事第5位に入賞している。
中国の16歳たち
予備選での中国勢は本当にレヴェルが高かった。とりわけ年齢に見合わぬ成熟した音楽を聴かせたティーンエイジャー。最年少である16歳は8名出場し、そのうちツーハン・ジン Zihan Jin、イーファン・ウー Yifan Wu、ワンズォ・ヤン Fanze Yang、ティエンヤオ・ルー Tianyao Lyu の4名が本大会に進出した。いずれも優れたテクニックとオーソドックスなスタイルを身につけており、完成度が高かった。中でもオールマイティな力を持つYifan Wu、技巧派のFanze Yang、知性派のZihan Zinには惹きつけられた。Zinを指導する先生のビデオも見たが、表現に結びつくしっかりした基礎教育を行っているという印象を受けた。惜しくも落選したが、ペイダー・ドゥ Peida Duのテンペラメント溢れる演奏も心に残った。ラストのミスが祟ったか落選したが、ジーチエン・ルー Zhiqian Lyuも悠揚迫らざる演奏で将来の大器と感じさせた。

ダン・タイ・ソン門下
2015年のケイト・リウ、エリック・ルー、2021年のブルース・リウなど、ここ2回のコンクールではダン・タイ・ソンが指導するピアニストが優勝または上位入賞を果たしている。今年の予備予選にも、国籍は異なるがいずれもアジア系で、多数の優秀なコンテスタントを送り込んでいた。
ソン門下のうち、ユトン・ソン Yutong Sun(中国)とシンジェ・リー Xinje Li(中国)、ソンホ・ユ Sung Ho Yoo(韓国)は残念だったが、カイミン・チャン Kai-Min Chang(台湾)はじめ7名(旧門下のシャオシュアン・リー Xiaoxuan Liも入れれば8名)が秋の本大会に進んだ。
そのうち中国のユーボー・デン Yubo Dengは「夢見るように弾く」エリック・ルータイプ、アテナ・デン Athena Dengは女性版ブルース・リウのような颯爽としたスタイル。日本の小野田有紗は東洋の神秘ともいうべき静謐なスタイル。中国のズートン・ワン Zitong Wangはしなやかで活き活きとした音楽をやるし、同じ中国のハンユエン・チュウ Hanyuan Zhuは、ものすごくゆっくりだったり速かったり、極小のピアニッシモで弾いたかと思うと一転して爆音になるコントラスト系。

頭ひとつ抜けているのはKai-Min Chang。2021年の時は体調を崩して2次予選止まりだったが、2024年にリーズ国際コンクールで最年少のファイナリスト(第4位)になり、勢いに乗っている。カイミンは素晴らしい音楽家だが、中国の若手のようにメカニックを誇るタイプではない。練習曲 op.10-4は、ときに曇る音はあったが、ハーモニーの変化に敏感に反応し、全体を大きな流れでまとめていた。ノクターン op.48-2 は内省的な音楽作りでカイミンの独壇場。彼の長い指からさまざまな感情の移ろいが紡ぎ出される。
ツィエ・タオ Ziye Tao(中国)は会場で聴けなかったが、私が好きだったのは、Yubo Deng。チェロとヴァイオリンが切なく歌い合う練習曲 op.25-7、オクターヴが見事にフレージングされた(非常に稀なケース)op.25-10と悠揚迫らざるテンポで右手を歌い込む(これまた非常に稀)op.25-11など、すべてに余裕があり、名前通り「有望」なピアニストだ。
日本人コンテスタントたち
日本からは13名が秋の本大会に進んだ。最年少は15歳の中島結里愛。韓国との二重国籍という。競争の場には似つかわしくない穏やかな音楽で、これは教えようとして教えられるものではないのだろう。弾きはじめる前に長いこと鍵盤に手をかざすしぐさも独特だ。

やはり誰にも似ていなかったのが、デュッセルドルフ生まれの中川優芽花。一般的な弾き手が24色のクレヨンで描くとすれば、彼女のパレットには48色ぐらいある感じだ。音符の行間を読み、音がないときに局面を一変させるすべを心得ている稀有なピアニストだ。
早い時期にアメリカに渡った島田隼も楽しみな一人だ。豊かなテンペラメントの持ち主で、もう少し重量感がほしい楽曲もあるが、音楽に推進力があり、本大会が楽しみだ。
前回はセミファイナル(第3次予選)まで進出した進藤実優は霊感に満ちたピアニストで、音楽への没入度は尋常一様ではない。今度こそ本選で協奏曲を弾いてほしいものだ。

健闘したピリオド楽器コンクール組
2023年に開催された第2回ピリオド楽器のためのコンクールの入賞者たちにも注目した。
優勝したエリック・グオ Eric Guo(カナダ)はじめ、第3位のヨンファン・チョン Yonghuan Zhong(中国)とともに小野田有紗、東海林茉奈、西本裕矢の5名が秋の本大会に進み、ピリオド・コンからの出場者全員が予備予選を突破したことになる。第2位のピオトル・パヴラック Piotr Pawlak(ポーランド)も免除で秋に出場するので、入賞者全員、さらにアンジェイ・ヴィエルチンスキ Andrzej Wierciński(ポーランド)も免除なので、ピリオド組は7名になる。

ピリオドのコンクールでは、ショパンが生きていた時代の楽器を使うことが義務づけられている。当然、タッチも奏法も現代の楽器とは大きく異なる。演奏スタイルにしても、例えば装飾法やルバートなど、現代の習慣とは違うものが多い。
今回のコンクール、予備予選には古楽系の審査員はいない。受ける側も、古楽的な演奏習慣は採用しないほうが無難とされている。しかし、ピリオド・コンに出場したピアニストたちは、ショパンのスタイルに沿って旋律をどのように装飾するか、さまざまな工夫を凝らしてきたのだ。
ピリオド楽器の奏法とスタイルを学んだことは彼らの演奏に確実に反映されていたと思う。優勝者のEric Guoは、ノクターン op.62-1でアインガング(短い即興的な導入パッセージ)を入れていたし、東海林茉奈もノクターン op.27-2で、一般的な楽譜には書かれていない(エキエル版に「または」と記載されているもので、ショパンのオリジナルには変わりない)装飾を加えて弾いていた。彼らの存在が本大会の価値観に一石を投じることになることを期待しよう。
演奏中のアクシデント
7日目の午後のセッションで、中国のユーハン・ワン Yuhang Wangにアクシデントが起きてしまった。予備予選では、ショパンの練習曲を2曲選択することが求められる。多くのコンテスタントはまずノクターンやマズルカなどを弾き、筋肉を温めてから練習曲に移行していたが、ユーハン・ワンは冒頭で一番難しいとされる op.10-1、op.10-2をつづけて演奏した。そして、そのときは何も問題がなかったのだ。続くノクターン op.27-2は静謐な煌めきをもって演奏されたが、終わりのほうで右手の人差し指が伸びるのが気になった(私はプレス席、5列目左に座っていた)。演奏後、しばらく右手を開閉させていたが、おもむろに弾き始めたマズルカ op.56-1の細かいパッセージで引っかかり、2回目に出てきたところで演奏は中断された。
演奏中に手が攣る(つる)ことはよくあるので、もう一度チャンスをということで、5月1日の午前セッションの最後に再登場したが、再び中断。涙を浮かべながら、機会を与えてくれたコンクール委員会と関係者に感謝の言葉を述べてステージを去った。
果たして再登場させてよかったのだろうか。スポーツ大会ではないから難しいかもしれないが、専門的な見地から判断を下す医師かトレーナーが常駐していれば…と思うことしきりだった。
ルールの変更
例年、コンクール委員会が定める主要コンクールの直近の上位入賞者には予備予選免除の特典があるが、2025年はこの枠が拡大され、年齢制限以内であれば過去に遡って免除されるというルールになった。そのために、エリック・ルーや小林海都、牛田智大も本大会に出場することになったのだが、免除枠が予備予選の定員80名とは別に設けられるのか、免除者も含むのかはっきりしなかったため、コンテスタントたちの間で不安が広がっていた。

結果的に免除者は19名に膨れ上がり、そのぶん予備予選の合格者は66名に抑えられることになった。さらに狭き門となってしまったため、納得のいかないコンテスタントも多かったことだろう。
当事者の都合を鑑みず突然ルールを変えることはこれまでのショパンコンクールでも行われてきたことだが、若者たちの将来を左右する大舞台なのだから、もう少し配慮がほしかったと思わざるをえない。
(人名のカタカナ表記は編集部で作成)
第19回ショパン国際ピアノコンクール
2025.10/2(木)〜10/23(木) 会場:ワルシャワ・フィルハーモニー
◎開会記念コンサート 10/2(木)
◎第1次予選 10/3(金)〜10/7(火)
◎第2次予選 10/9(木)〜10/12(日)
◎第3次予選 10/14(火)〜10/16(木)
◎本選 10/18(土)〜10/20(月)
◎入賞者披露演奏会 10/21(火)〜10/23(木)
https://chopincompetition.pl
【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール
出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


青柳いづみこ Izumiko Aoyagi(ピアニスト・文筆家)
安川加壽子、ピエール・バルビゼの両氏に師事。マルセイユ音楽院首席卒業。東京藝術大学大学院博士課程修了。学術博士。平成2年度文化庁芸術祭賞。演奏と文筆を兼ね、著作は34点、CDは25点。『翼のはえた指』で吉田秀和賞、『青柳瑞穂の生涯』で日本エッセイストクラブ賞、『6本指のゴルトベルク』で講談社エッセイ賞、CD『ロマンティック・ドビュッシー』でミュージックペンクラブ音楽賞受賞。2023年には、高橋悠治とのアルバム『シューベルトの手紙』(ALM)、『仮面のある風景 F・クープラン作品集』(TKI)、西本夏生とのアルバム『カプリス』(ALM)をリリース、2024年にはジョヴァニネッティとのCD『19歳のシューベルト』(ALM)リリース。近刊に『パリの音楽サロン ベルエポックから狂乱の時代まで』(岩波新書)。2025年にはサティ没後100年を記念して書籍とCDアルバムを刊行予定。日本演奏連盟、日本ショパン協会理事。大阪音楽大学名誉教授、神戸女学院大学講師。兵庫県養父市芸術監督。
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