Aからの眺望 #28
音楽ははじまっている。—— happy new year, 2025!

文:青澤隆明

Photo:Teruhiko Inaba

 なにかをはじめよう、とは思わない。いつからか、はじまっているのだから。それをもういちど起こすように、私たちはなにかをつづけていく。
 音楽のはじまりは、わからない。しかし、曲として区切られ、すくいとられ、枠に収められたりした音楽の時間は、はじまりとおわりをもつものとされる。聞こえてきたときがはじまり、で、聞こえなくなったときがおわり、だ。
 生まれたときがはじまりならば、そのようにもみなされようが、ほんとうは、はじめたと思うときには、もうはじまっている。いなくなったら、それでおわり、というわけでもなかった。
 曲が聴けるのは、それがひとまず成立しているからだし、ここに鳴り響いてくるからである。いつからはじまった、というふうに、はっきりと定めることはできない。鳴りやむときには、さらに聴くひとを巻き込んでしまっているから、もっと状況はあいまいになるだろう。
 私がたおれたら、私を成り立たせてきたり、私のなかで蠢いていたりしていたもの、私のなかに棲んできたものたちがみな、ついえてしまう。若いころは素朴に、そう思っていた。だから、この乗りものを、いま少しでも遠くまで、運ばなくてはいけないのだ、と。
 積み荷を降ろすまえに横転してしまうわけにはいかないが、しかし大きくみて、足もとにそのためのレールがあるようでもなかった。時は確実に過ぎるが、それはレールではなく、ただいつかはこのリフレインが鳴りやむときもくる、というふうに告げられているだけ。
 だが、いつたおれてもおかしくはないような頃あいになってみれば、ことはそうかんたんでもなさそうなのである。まだまだ仕事が残っているから、そういうわけにはいかないし、そのためにひとはなんとか生きぬくのだろう。そうすることが可能であるように、日々を越えていくしかない。これもまた、考えてみてもしかたがないことで、いつかは辻褄を合わせるときがくるだろうし、自ずとそうなってしまうはずなのである。つまり、たおれるときまでは、いまに集中して、もちこたえているまでだ。
 はじまりのことを思っていたのに、はて、どうしてこういう話になってくるのか……。
 はじめてしまったからには、おわりがある、とされる。曲には、アルバムには、文には、本には、いちおうの結びがあるだろう。そこで、いったんそれまでの時が途切れ、余地がなくなり、ページがつき、あるいは、そこから余白もはじまっている。その地点で、いったんのおわり。そこからは、またべつのストーリー。わかれたあとには、それぞれの道があり……。
 だが、ほんとうは、そこからがはじまりだ。それは、つづきでなくとも、響きあうものとして、これまでのことをどこかで覚えているにちがいない。新しいはじまりというよりは、そこで段落や章が、本のかたちならば巻が、また変わるだけのことである。
 そう言えば、本の一冊を一巻と言うのは、もちろん書物が巻き物の形状をもった時代の名残りだろうが、巻という言葉はそれ自体が円環をいだき、また、だんだんとついえるように平らかになっていく様子を想起させる。その仕草は、かつて誰かの手を介して書かれていったことを、少しずつ手もとに繰り寄せる所作と結びついている。そう思うと、なにかしら時が重なって、うれしい心持ちにもなる。捲ることは、なにかをのばすことでもある。
 そして、巻と呼ぶことで、その言葉に先立つかたちの記憶を留めているのは、かたちやありさまが変わっても、想いのほうには継がれていくものがある、ということの証しだろう。
 とすれば、すべての曲は、それまでに鳴りやんだ、と思われていた曲たちの膨大な記憶のさきに、接ぎ木されるように、さらに繰りのべられるなにかでもある。音楽の記憶を、幸福であれ、そうでなかれ、先へと、次へと、またの誰かへと手渡すように、新しい曲はそれまでの曲のさきに一歩、その曲がくり返される時間や空間のぶんだけ連関を繋いでいく。
 それを、いのち、というふうに言いたくなるのをこらえているのは、それが個々の生命を超えて、私たちに託された、なにか魂と呼べそうなうねりであり、波動であるからだ。
 シンパシーということ、シンクロニゼーションということが、聴くひとをアンサンブルに招き入れ、包み込むようにして成就されていく。成就、といま記しはしたが、そこにはやはりおわりはない。達成はつねに持ち越される。なにかとなにかが重ねるときに、時間は重ね合わされ、溶け合っている。かたちはかたちを超えて、時間を継ぐように、水が流れるように、滔々と流れていく。
 暦を捲るように、月日がいきなり変わるということはないのだろう。人の心はそのように小器用にはできていない。後悔も未練も、自分可愛さや怖がりを引きのばすだけのことがほとんどである。
 それでも、新しくきた朝は、たとえくり返しであれ、二度とくり返されることのない一日を告げている、この私にとっては。夜もまた終わりなきものだが、立ち止まらず動き続けられれば、この星のどこかに朝はくる。じっと耐えているだけで、いつかは過ぎていく収まりもあろう。そうした支えのもとに、私たちの心は少しずつ塞がりだけでなく開かれをさぐりだす。
 新しい年がやってきて、また新しい一日がやってきた。それだけでなにかが新しくなるはずはないけれど、過ぎていくだけではなく、この日のなかに少しでも好きで満ちていきたいと思う。
 時が過ぎるのではなく、人が過ぎるのだ——と書いた詩人の声を思いながら、そうであるならば、その限られた時のなかを、ただ与えられるままだけでなく、愉快に通り過ぎていきたい、と私は希う。そのときも音楽は聞こえているし、そうであるならば、私はまた音楽であるのだ。

Photo:Takaakira Aosawa

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。