コンクールの舞台裏を支えるピアノ調律師たち

知られざる秒単位の闘い

 若いピアニストたちがしのぎを削るコンクールの舞台。11月に6年ぶりに行われた浜松国際ピアノコンクールでは、世界から集まった出場者たちがハイレベルな演奏を繰り広げ、会場やライブ配信で多くの音楽ファンが新たな才能の誕生を見守った。自身のキャリアを賭けてコンクールにやってくる彼らのパフォーマンスを陰で支えているのが調律師たちだ。ここにもピアノメーカー各社による、もうひとつの熱き闘いがある。

河合楽器製作所のメインチューナーを務めた大久保英質さん
写真提供:浜松国際ピアノコンクール

 浜松では3社のピアノが採用された。特に、日本のメーカー2社にとって、地元・浜松でのビッグイベントは、万全の態勢で臨む重要な大会。第1次予選の始まる直前にピアノセレクションの日が設けられるが、それぞれのコンテスタントがどのピアノを選ぶかは、メーカー側にとっても蓋を開けてみないとわからないという。国際コンクールの場合、初めて顔を合わせるコンテスタントも少なくない。また、自宅で所有しているピアノと違うメーカーの楽器を選択するピアニストもいて、良くも悪くも「寝耳に水」というケースがあるそうだ。

ピアノセレクションの準備をする各社の調律師たち
写真提供:浜松国際ピアノコンクール

 浜松の第1次予選参加者87名のうち37名、本選でも6名中3名と、最も多くのコンテスタントに選ばれたのが、河合楽器製作所のShigeru Kawai「SK-EX」。かのミハイル・プレトニョフが愛用していることで知られ、2021年のショパンコンクールでも、第2位に入賞したアレクサンダー・ガジェヴはじめ多くのコンテスタントが弾くなど、近年、国際コンクールでの存在感を増している。その豊かなサウンドが印象に残っている方も多いだろう。

 同社では、調律師3人のチームで臨んだ。メインチューナーとしてSK-EXの調律にあたったShigeru Kawaiピアノ研究所の大久保英質(ひでみ)さん、カワイインドネシアのスヨノ・アサカさんのお二人に、本選終了直後、結果が出る前の待ち時間にお話をうかがった。

カワイ調律チーム
左から、市川直人さん(サブチューナー/カワイアメリカ)、
大久保英質さん(メインチューナー/Shigeru Kawaiピアノ研究所)、
スヨノ・アサカさん(カワイインドネシア)
写真提供:河合楽器製作所

—— まずはコンクールが終わって、今の心境はいかがですか。

大久保 特にこういう大きいコンクールは、ピアニストのその後の人生をも左右する場。人生を賭けて臨んできているコンクールで、ステージに立ったときにストレスなく自分の持っている実力を最大限に出してもらえるように準備をしています。とりあえずピアノに特に大きな問題なく、無事にすべての出場者の演奏を終えることができてホッとしています。

舞台転換などの限られた時間の中での作業にチームワークで取り組む
写真提供:河合楽器製作所

—— ステージで使われるのは各メーカー1台だそうですね。たとえば、今回の浜松に向けては、どのくらい前から準備をされてきたのでしょうか。

大久保 今回、私はメインチューナーを担当させていただいたのですが、浜松やショパンのような大きなコンクールになると、長いときは2年くらい前からどのピアノを使おうかと、うっすらと自分の中では考えていますね。実際、楽器を調整しながら準備していくのは1年くらい前からです。

 弊社の中で手持ちのコンサート用SK-EXが何台かあるのですが、その中から選定を繰り返して、あのピアノに最終的に決めました。実は、この浜松のコンクールの前に、昨年シドニー国際コンクールでも使っていて、優勝したジョンファン・キムさんがファイナルで演奏したピアノなんです。

写真提供:河合楽器製作所

—— 今回は勝手知ったるアクトシティ浜松でしたが、会場に楽器を入れて選定にあたるのでしょうか。大ホールと中ホールで響きがかなり違いますよね。

大久保 事前に中ホールをお借りして、実際にピアノを持ち込みました。第一条件として良い楽器であることはもちろん重要なのですが、おそらくそれと同じくらい大事なのが、そのホールに合わせられるかどうか。事前にそのあたりを調整します。前回(2018年)優勝したジャン・チャクムルさんのときも私はメインチューナーでしたし、ここは地元で、大ホールと中ホールの差はよくわかっているので。そこら辺の作戦みたいなものは自分の中にもともとあるんです。

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日本語が堪能なスヨノさんは、2001年の入社。優秀な調律技術者を数多く擁するカワイの中でも、ほんのひと握りの特に高度な専門技能者だけに与えられるMPA(マスター・ピアノ・アーティザン)資格を、2014年にインドネシア人として初めて取得。1週間のあいだに1台のピアノを仕上げるという難関の試験をパスした。現在は同国で後進の指導にもあたっている。今回、この重要なステージの調律チームのメンバーに抜擢された。

—— スヨノさんは、今回初めて大規模なコンクールに携わったそうですが、いかがでしたか。

スヨノ インドネシアでは、小さなコンクールで調律した経験はあったのですが、こんな大きなコンクールは初めてです。ステージに出るピアノだけなく、公式練習場所などに10台近く入っているので、そういった楽器も調整していました。最後のリハーサル室に入っているShigeru Kawaiも担当していました。

写真提供:河合楽器製作所

大久保 そういうのもとても大事なんですよ。ピアニストに気持ちよく弾いてもらうためには、練習の環境も良くないと。

—— コンクールならではの調律の難しさというのはありますか。

大久保 コンサートはあくまでもその日演奏する人の好みに合わせて調整するのですが、コンクールはどうしても不特定多数の人が弾くことになります。こちらはベストなものを出していますし、彼らはピアノセレクションで良いと思ったものを選んでいるので、大きな要求は、実はそんなに多くはないのです。例えば、可能ならもうちょっとタッチを軽くしてほしいとか、音質をもう少し明るくしてほしいなど、わずかな注文をいただくこともありますけど、それに可能な範囲で応えていますね。

スヨノ コンテスタントに気持ちよく使ってもらうために、朝から晩までピアノの調整をしていました。また、コンクールでは、調整に充てられる時間が限られているので、例えば5分、10分の間に何ができるか、というのが、とても勉強になりました。

大久保 コンクール期間中の日中は、休憩時間が数分しかないというときもあります。そういうとき、我々の仕事は、まるでF1のピットみたいな状態。数分しかないとき、そこで何をすればいいのか。そこもメーカーによってそれぞれのノウハウがあります。

スヨノ 5分とか短い時間の中で、我々が後ろから大久保さんのサポートをしていくのは良い経験だったなと思っています。

大久保 正直、もう秒単位の争い。ピアノの調律は複数人ではできないので、手術の執刀医みたいにメインチューナーのまわりで他のスタッフがサポートします。外装を外すだけでも、そこ外して、あそこ外して、私は道具取ってくるからっていうふうに手分けして…。ご覧になったかわからないですけど、後ろに一人いて、何かちょこちょこ話しかけているのは「あと2分です」「あと1分です」「あと何秒です」っていうのを言ってもらってるんですよ、常にずっと。

スヨノ 私はタイムキーパーとして「あと1分ですよ!」と後ろで声をかけていました。

大久保さんのアドバイスを聞くスヨノさん
写真提供:河合楽器製作所

—— なるほど! 本当にF1のタイヤ交換みたいなことが行われているんですね。そういう僅かな時間しかない時は、どういう部分を直すこと多いのでしょうか。

大久保 超絶技巧みたいな激しい曲も多いので、単純に音が狂うこともありますし、フォルティッシモで叩かれるってことはそれだけ音が荒れるんですよ。硬くなってくる。それを常に選んだときの状態に近づける。もしくはコンクールで大事なのは、ファイナルに向かってどんどんピアノが良くなっていくようにしていくのがベストなんです。弾かれながら、荒れながらも、ホールに最高にマッチするようにどんどん調整していきます。

 あとは、今回は中ホールが湿度の変化がけっこうあり、苦労しました。コロナの関係でホールの空調がより外気を取り込むようになったことも関係しているのかもしれません。ピアノというのは木でできているので、湿度の変化が大きいと暴れるんですよね。楽器としては30%~50%が理想なんですが、とにかく変動がなく安定するのがいいんですよ。

—— いろいろなご苦労があるのですね。昔は、浜松では夜中も24時間ホールが使えるようになっていましたよね。

大久保 以前はそうだったのですが、いまは変わって、夜中の12時までと朝6時からになりました。やっぱり働き方改革らしいです。海外のコンクールの場合は、真夜中も普通にホールを開けてるので、調整時間も多少は長く取れるのですが、逆に午前2時からとか、4時からとか、すごく変な時間に割り当てされるので、それはそれで大変なんです。

大久保さんの作業を真剣な眼差しで見守るスヨノさん
写真提供:河合楽器製作所

—— ピアノのこと以外に、緊張しているコンテスタントや、見知らぬ国で困っているコンテスタントなどをサポートしてあげることもあるのでしょうか。

大久保 今回のコンテスタントの中にもいたんですけど、海外の方で、日本に来て必死で練習しすぎて腕を痛めてしまった人がいて、「日本の薬局で湿布をどうやって買ったらいいかわからない」と言うので、代わりに探してあげたり、私のギックリ腰用の湿布をあげたりとか…(笑)。楽器に対して不安がないようにしてあげるのと同時に、演奏以外の部分でストレスがかからないようにしてあげる…それが私たちの仕事なのかなと思います。

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ピアノメーカーは、コンクールで自社のピアノを弾いたコンテスタントが優勝することを願って、最高の状態にある楽器を用意する。調律師にとってコンクールはやりがいのあるステージだが、大久保さんは「最後に最高の笑顔になれるのはたった1名しかいない。そこは調律師としてはなかなかつらい部分。僕が演奏を助けられるピアノにできていたら、あの人は落ちずに次に進めたかもしれないと考えると、結局どこまで行っても落ちた人がいる限り、何か心の底から喜べないんですよね」と本音も漏らす。しかし、「選んでくれた人は本当に戦友」と語る通り、コンテスタントにとっては一緒に闘ってくれる何より心強い相棒なのだ。一方、インドネシア初のコンサートチューナーとして、今回の貴重な経験を自国の音楽文化の発展に活かしたいと語るスヨノさん。それぞれが、若きピアニストたちとともに全力で駆け抜けた浜松での18日間だった。

来年、同社ではロン=ティボー(3月/フランス)、仙台(6月)、ショパン(10月/ポーランド)、パデレフスキ(11月/ポーランド)に参加する予定とのこと。7月には自社が運営する第5回Shigeru Kawai国際ピアノコンクールも控えている。調律師たちの奮闘にも注目しながら、ぜひコンクールを楽しんでほしい。

取材・文:編集部