マリナ・レベカ(ソプラノ)| 連載 いま聴いておきたい歌手たち 第3回

text:香原斗志(オペラ評論家)

マリナ・レベカの新しいアルバム『SRIRITO』は《ノルマ》の〈清らかな女神 Casta Diva〉で始まるが、その出来ばえが尋常ではない。深くしっとりとした響きで繊細に音符をなぞると、とてつもなく深い精神性がにじむ。それに弱音は、BMWでもマゼラーティでもいいが高級で滑らかで軽やかに吹け上がる高出力のエンジンを軽く回したかのようで、聴いていて大きな懐に抱かれているような安心感を得られる。そしてアクセルを踏み込むと、厚みのある声が官能的な色彩を帯びたまま、鋭いアジリタを伴って、超高音まで自然に駆け上がる。

艶、深み、響きの質感、ボリューム、完璧なアジリタ、超アクート、劇的な表出力、深い精神性……。それが一人の声のなかに揃い、そのうえ声自体に痺れるような官能性がある。レベカのようなスーパーなソプラノには滅多にお目にかかれない。

初めて彼女の声を聴いたのは2008年、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)における《マホメット2世》のアンナ役で、まだデビューから1年という時期だったが、中音域の充実した技巧派の登場に胸が高鳴った。そして、その3ヵ月後にはROFの日本公演で、同じアンナ役を披露している。

その翌年、ザルツブルク音楽祭でリッカルド・ムーティ指揮のロッシーニ《モイーズとファラオン》に出演したレベカにインタビューをした。指定されたカフェが休みで、無事に会えてから、冷たい夏の雨のなかで待っていた私に何度も何度も謝ってくれ、逆に恐縮したのが忘れられない。真摯で誠実な女性なのだ。その人柄は彼女の歌に、姿勢は着実な成長となって表れているように思う。

余談だが、インタビューの翌日、公演前に「レベカは風邪をひいたが歌う」というアナウンスが流れ、前日、雨のなかを二人で歩き回ったせいだと蒼ざめたのを思い出す。ただし、体調不良など微塵も感じさせない歌で、一番の拍手を浴びていたのでホッとしたが。

そのときのインタビューで、「13歳のとき、故郷ラトビアのリガで《ノルマ》を聴いて衝撃を受け、本格的に歌の勉強を始めました」「ノルマを歌うのが夢です」と語っていたレベカは、すでに《ノルマ》を十八番にしており、その出来は冒頭で記したとおりだ。

2013年にROFでフローレスと共演した《ギヨーム・テル》のマティルデも傑出した出来だったが、近年はロッシーニをあまり歌っていない。代わりに歌う機会が増えたのがヴェルディのオペラである。《ラ・トラヴィアータ》、《ジョヴァンナ・ダルコ》、《シモン・ボッカネグラ》、そして《イル・トロヴァトーレ》も控える。いまのレベカには、ドニゼッティの女王三部作などもいいが、ヴェルディもぴったりだと思う。

批判校訂版のスコアを見れば一目瞭然だが、ヴェルディは歌手に微妙で繊細な表現を求めている。初期から中期からの作品には、細かいパッセージを敏捷に歌うアジリタも頻出する。ヴェルディは重くて大きな声で歌うもの、という先入観がいまもあるが、ヴェルディのオペラを初演した歌手たちの多くは、ロッシーニやドニゼッティ、ベッリーニのオペラを歌い慣れた歌手だった。ヴェルディは歌手にいっそうのドラマ性は求めても、歌唱法を転換したわけではない。

レベカはいわゆるベルカントのテクニックに不足がない一方で、デビュー当時から声の厚みに恵まれ、将来はワーグナーも歌えるという声さえ聞こえた。ヴェルディが理想としたのはまさにレベカのような歌手。ヴェルディのスコアからはそう感じられる。

幸い、今年は11月2日、4日にトリエステのヴェルディ歌劇場の日本公演で、レベカがヴィオレッタを歌う《ラ・トラヴィアータ》を鑑賞できる。《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラも、聴く機会が訪れないものだろうか。

CD『SRIRITO』
マリーナ・レベカ(ソプラノ)
ヤデル・ビニャミーニ(指揮)
パレルモ・マッシモ劇場管弦楽団&合唱団
PRIMA001
Prima ¥オープン

 


profile
香原斗志 (Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。