入賞者INTERVIEW ヴィンセント・オン(マレーシア)

10/1 ジャパン・アーツ

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高坂はる香のワルシャワ現地レポート 第11回

取材・文:高坂はる香

※ファイナル演奏後、結果発表の前に、ヴィンセントさんへの関心が高まりすぎて行ったロングインタビューです。前半は音楽の話、後半はご自身について語ってくださいました!

Vincent Ong ©Haruka Kosaka

──このコンクールを通じてショパンに近づく旅路を振り返って、いかがでしたか?

 とても長い旅であり、大きな挑戦でした。ショパンを愛する瞬間もあれば、ともすると憎みたくなるような瞬間もあり、その中間の感情も経験しましたね。でもその過程で多くを学びました。ショパンを弾くということに限らず、ピアニストとして成長できたと思います。
 ショパンが特別なのは、音楽が非常に洗練されていて、味わいを掴むことやバランスをとることが難しい点、そしてその制約のなか、構造にも意識を払いつつ、しかし型にはめこんだ状態に陥らずに、自発的で自由な表現をする必要がある点によると思います。
 さらに、ピアノを歌わせることも大切な要素です。これは一生かけて学んでいくものだと思います。

──あなたの歌い方はとても独特で素敵です。どうやってその歌の感覚を身につけたのですか?

 多分それは、ピアノのテクニックや音の出し方に関する私のアプローチに由来するのだと思います。
 一つの音を弾くには無限の可能性があり、音と音のつながり方も多様です。その意味で、ひとつひとつの体の動きが音に影響を与えると思っています。
 ピアノの音は、一度鍵盤を押し下げたら、さらに鍵盤を押そうがあとは減衰するしかありません。でもその後ピアニストがどう指や腕を動かすかが重要だと思います。その動きによって、音と音が繋がり、音楽が途切れず続く表現が実現します。
 鍵盤を速く離すかゆっくり離すか、次の音との間合いをどうとるかも、音に大きく影響します。ロマン派の作品でロマンティックなレガートの表現をするには、一般的にはゆっくり指を離すほうが好ましい。一方でモーツァルトではレガートの表現が少し異なり、より速く指を離すほうが良いかもしれません。
 これはあくまで一例ですが、演奏には無限の可能性があるので、常に自分自身、楽器、音を発見しながら探っていきます。大切なのは、今起きていることに反応すること。「これが欲しい」と固執するのではなく、今鳴る音に耳を傾け、瞬間に起きることに向き合います。そして体の感覚に敏感になり、音楽に合う絶妙な緊張のバランスを探ります。

──ところで、ステージに出るときはゆーっくり出てきて、演奏を終えた後は倍くらいのスピードで帰っていきますが、何か理由があるのですか?

 演奏の後は、うまくいかなかった、ひどかったと自分で思っているから、お客さんのほうをあまり見ることができず、いち早くそこから立ち去りたくて急いで帰ります(笑)。私は自分の演奏にとても批判的なタイプなので。

──…でも最初はゆっくり出てくるんですよね?

 それは落ち着いた気持ちでステージに立ちたいからですね。音楽を始めるときに急いだ気持ちになりたくないんです。時間をかけたほうが音楽に入りやすいですし。

──あと、みんなから言われたかもしれませんが、1次でステージに現れたとき、名前をアナウンスした司会の女性と握手をしていましたよね! このコンクールで初めて見ました(笑)。

 そうそう(笑)。ステージに出る階段を上がったら彼女がちょうど目の前に立っていて、私のことを見ていたので、ふと思ったのです。“うん、ちょっと立ち止まって彼女が私のプログラムを読み上げてくれたことへのお礼の気持ちを伝えたほうがいいかな”って(笑)。無視はできないですから!
 次のラウンドで握手をしなかった理由は…司会者が奥の壁際に立っていて手が届かなかったからです。わざわざ近寄って煩わせるのも変かなと。

©Krzysztof Szlezak/NIFC

──あとで「みんな握手はしていないよ」と誰かに言われました?

 いや、はっきり言われたんじゃなくて、「あなたが握手をしたら拍手が大きくなったのわかった?」って言われて、どういうことだろうと思いました。それで、他の人は誰も握手していないと知りました(笑)。

──そんな佇まいからもユニークそうな方だと感じましたが、実際の演奏にも特別な味わいがあります。ショパンのようにさまざまな名演奏がある作品について、自分だけの音楽の解釈はどのように見つけているのでしょうか?

 そうですね…でもまず、自分が他の人と違う独特の音楽を演奏しようとあえて目指しているわけではないということは、まずお伝えしておきたいです。実際そんなにユニークだと自分では思っていませんし(笑)。
  説明するのは難しいですが、はじめは録音をあまり聴かないようにしています。まずは楽譜から曲を学び、そのあと他の演奏を聴くこともあります。楽譜をきちんと読み込むと、解釈はすでにそこにあるように思えます。というか、解釈は演奏者の中に内在しているといってもいいのかもしれません。
 だから「ここは少し変わった音を鳴らそう」などと考えることはなく、楽譜が示すものを大切にしているだけです。もちろん、楽譜をちゃんと読むこと自体、簡単ではありませんけれど。解釈のアイデアは子どもの頃からの先生をはじめ、さまざまな先生から徐々に学び取ってきたものだと思います。
 あとは、自分が納得できるやり方で演奏をしているだけです。それを聴き手に納得して受け入れてもらえるように弾くことで、解釈というものが成り立つのでしょう。
 いずれにしても、私はまだまだショパンの音楽の専門家とはいえませんから…私よりもはるかにショパンを深く知る音楽学者や音楽家がたくさんいるので、これから学ぶべきことは多いと感じています。現時点で自分が理解している、愛しているショパンを表現しているにすぎないのです。そもそも彼はもう亡くなっていますから、ある意味、どんな演奏もショパン自身であることは不可能だとは思いますけれど。

*****

──ところで、ご家族に音楽家はいるのですか?

 いいえ、私だけです。

──では、どのようにしてピアノを始めたのですか?

 兄がピアノを弾いていたので、それを真似して始めたようです。家にはキーボードがあって、小さいころはどうやって弾くのかよくわからないまま、遊びで弾いていました。

©Haruka Kosaka

──生まれ育ったマレーシアでは、周りにピアノを勉強している人がたくさんいたのでしょうか?

 ヤマハのような音楽教室がたくさんあるので、子供がピアノを習うこと自体は一般的ですが、高いレベルの専門的な教育を受けている人は少ないかもしれません。プロのピアニストはいますが、世界的に有名なピアニストが出てこないのは、私たちの文化があまり西洋クラシック音楽に注目していないこと、他のアジアの国々と同様に学業重視の環境なので、良い成績を取り、医者や弁護士になるほうがいいと思う人が多いのかもしれません。
 私の場合はヤマハのシステムと英国のABRSM(注:王立音楽学校と提携した音楽教育普及のための組織)の両方で学ぶことがとてもうまくいきました。ヤマハでは、耳のトレーニングや即興演奏をして、ABRSMでは西洋クラシックのレパートリーを学びました。これらが私の基礎を築いたといえます。
 その後、私にとって最も重要なマレーシアの先生に出会い、大きな影響を受けました。10代でアジアのショパンコンクールなどに参加するようになりました。ゆっくりとした長い道のりでした。

──そして、ある時点でドイツで勉強しようと決めたんですよね?

はい、ちょうど2年前ですね。

──それまではマレーシアで勉強していたということですか!?

 はい、それも音楽大学のようなところで勉強していたわけではなく、1ヵ月か2ヵ月に1回、個人的にレッスンに通っていました。あとはナタリア・トゥルル先生などのマスタークラスには参加していました。
 留学は考えていましたが、コロナの影響で2023年までそれが叶わず、ようやく2023年4月にベルリンのハンス・アイスラー音楽大学に留学して、エルダー・ネボルシン先生のクラスで勉強しました。アレクサンダー・ガジェヴさんや三浦謙司さんと同じ先生です。

──今回、このコンクールがあなたをどう変えると思いますか?

 ファイナルまで進めると思っていませんでしたから、とてもありがたいですし、人生の大きな転機であるのは確かだと思います。というのも、これまでピアニストとして注目される機会はありませんでしたから。正直、今はどうしたらいいかわかりません。
 でも、こうして注目されたときにどう対応していくかを学べる、とても良いチャンスだなと思っています。多くのメディア、多くのカメラやマイクに追われ、さまざまなことを質問され、さらには自分の演奏についてコメントやレビューが出ている…その中で集中力を失わず、音楽に向き合い続けるにはどうすればいいのか。私にとってとても新しい経験で、勉強になります。

©Haruka Kosaka

──初めてのことだと言いながら、人生2回目でもうすでになんでも知っているみたいな感じですね?

 いやいや、わからないんですよ本当に!(笑)

──ところで、リラックスしているときは何をするのが好きですか?

 散歩は好きです。あとは友達とお茶をしたり。ベルリンではそういう生活ですね。読書も再開しています。音楽はクラシックやピアノだけでなく、ロックやジャズなど他のジャンルもよく聴きます。
 他には、いろいろな動画を見るのが好きです。そういえば、相撲を観るのも好きなんですよ。

──相撲ですか! 好きな力士がいるのですか?

 そうですね、若隆景…いや、宇良がすごくおもしろい力士で好きですね! ただ、忙しくて何時間も全取組は観られないので、YouTubeにあるハイライトを観ています。

──相撲のどんなところが好きなのですか?

 短時間で勝負がつくところです。もちろん少し長く時間がかかるときもあるけど、ほんの数秒で決着がついてしまうところもある。まるで命を懸けているかのように土俵に立つ力士もいる。とても興味深いです。

──相撲と音楽に関係性を感じますか? 例えば取り組みが始まるまえの静寂とか、四股名が読み上げられる声とか。

 ああ、「ヨビダシ」ですか!? あまり考えたことはなかったけど確かに音楽的かも。

──よくご存知で…来日した際にはぜひ国技館で本物の相撲を観てください。ところで話をピアノに戻しますが、今回コンクールで演奏したShigeru Kawaiのピアノはいかがでしたか?

 音がとてもあたたかくて気に入りました。ショパンにとても合うピアノだと思いましたね。他のレパートリーだとまた違う選択になったかもしれませんが。
 例えばスタインウェイは安定したいわば標準的な音がするので、一番万能で、どんな音楽のスタイルにも合うと思います。間違いのない選択なのかもしれません…でも、Shigeru Kawaiには唯一無二の個性を感じました。5台のピアノを試奏して、タッチも私のテクニックやスタイルに合っていたので、迷うことなく選びました。

©Wojciech Grzedzinski/NIFC

──以前にもShigeru Kawaiを演奏したことがありましたか?

 6月にパリのカワイでマスタークラスに参加したときに弾いたのが唯一の経験です。だから本番で演奏したのは今回が初めてでした。

──ピアニストを目指そうと思ったのはなぜですか?

 幼い頃からピアノを始めて、だんだん興味を持つようになりましたが、野心的なタイプではありませんでした。世界で有名なコンサートピアニストになりたいという大きな夢を見るのが好きではないので。
 でも演奏をすることには、他のどんな職業にもない独特の魅力があります。率直に、ありのままの気持ちを伝え、人が人と体験を共有することの一部になれるのは、特別なことです。もしそれを仕事としてやり遂げられたら、こんなに素晴らしいことはありません。でもキャリアを築くには多くの困難を乗り越えなければならず、簡単ではありませんから、自分がプロのピアニストになれているのかどうかもまだわかりません。
 ピアニストはいつも違う楽器で演奏し、環境に適応しなくてはいけません。それでも、ピアノがまるで話しかけてくるように感じたり、自分が話しかけているように感じて、自分の仲間のように思えるときもあります。どこか孤独な仕事ですが、その孤独には美しさがあります。

──今後取り組みたいレパートリーは?

 ショパンは私にとって大切な作曲家ですからこれからも演奏し続けますが、モーツァルトやベートーヴェン、ハイドンなどの作曲家、それから後期ロマン派以降のロシアの作曲家ももっと探求したいです。例えば、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、メトネルなど。これまであまり演奏してこなかったので、もっと勉強したいですね。

©Haruka Kosaka

手が大きいという印象を受けますが、「確かに身長にしては手が大きいかもしれないけれど、普通ですよ。
指が長く見えるのは、指が細いからだと思います!」とのこと。

Chopin Competition
https://www.chopincompetition.pl/en


【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール

第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール

出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


高坂はる香 Haruka Kosaka

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/