作曲家たちは、音楽を思いついたとき、頭の中でどのような音を思い描いていたのでしょうか。また、楽譜に書き留めることのできない音を、心の中で聴いていたのでしょうか。そして、なぜその音を書き留めようとはしなかったのでしょうか。
19世紀後半の多くの作品を見ると、作曲家たちが非常に多くの演奏指示を楽譜に残していることが分かります。ほとんどすべての音符に、記号や言葉による何らかの指示が書き込まれているのです。一方で、「グスタフ・マーラーのように、詳細に記譜しても、自分が望む通りに演奏されることは決してないから、音楽に多くの指示を書き込むのは無意味だ」という作曲家もいます。つまり、指示は作曲家の構想を本当に伝えるものではないのです。本当にわかっているのは、文字通りに記譜されていないということだけです。昔の作曲家たちはそれを理解していました。また、演奏家が演奏を通して自分自身の個性を表現できる余地を残すべきだということも理解していました。
Chapter 3 「正真正銘」という言葉に潜む嘘
柴田 当時の作曲家たちは、自分の音楽がどのように演奏されるのかについて、非常に明確な考えを持っていたのでしょうか?それともあんまり気にしてなかった?
ブラウン そうですね、そこにはもうひとつ重要なポイントです。 彼らはすべての演奏がまったく同じになることを期待していたわけではありません。もちろん、楽譜に明確に書き表せないことを多く望んでいたとは思いますが、同時に、演奏ごとに一定の変化を求めていたと思います。さて、ここで少し複雑な領域に入りますが、ソロや室内楽と、複数の演奏者が同じパートを演奏するオーケストラや合唱曲では、異なるルールを適用しなければならないため、結果に違いが生じます。関わる人数が増えれば増えるほど、各演奏者の自由度は低くなります。ですから、非常に複雑な状況です。その自由さの度合いや、それを達成する方法は、アンサンブルの能力次第でもあるのです。
柴田 よかった!演奏家にある程度のさじ加減を任せてくれていた、ということでホッとしています(笑)作曲家が思う絶対的な演奏はないということですが、それに関して、私は古楽に時々付きまとう「オーセンティシティ(正真正銘の)」や「本物」という言葉を聞くのが本当に嫌いでして…これらの言葉についてどう思いますか?
ブラウン そうですね、1970年代と1980年代には、このことについて多くの論争がありました。 1980年代半ば頃だったと思いますが、オックスフォードの楽器店のショーウィンドウに、モーツァルトのミサ曲の録音の宣伝広告が貼ってあり、「モーツァルトが耳にしていたであろう演奏」だと宣伝文句にしていたのを覚えています。
当時、古楽運動には「オーセンティシティ」という言葉を好んで使う著名な音楽家が数多くいました。しかし、1988年にニコラス・ケニヨン編纂の『Authenticity and Early Music』という本が出版されました。私はこの本に何も寄稿していませんが、この本が出版されてからは、「オーセンティシティ」について語る人はめっきり少なくなりました。この本によって、この概念が偽物であることがはっきりと示されたのです。
柴田 それでも、演奏法においてオーセンティシティを求める人々がいると未だに感じます。
ブラウン 本当にそうでしょうか? 少なくとも、私はこの言葉はもう耳にしませんよ。
柴田 時々日本に帰ってくる時に、この言葉をテレビ番組や古楽のコンサートのチラシ宣伝文句として見かけるからです。関心を集めるためのキャッチコピーとして使われているのでしょうが、私は正直なところ、心がかゆくなります。
ブラウン ニコラス・ケニヨンの本は日本語に訳されていないと思います。西洋では、この本のおかげで「オーセンティック」という言葉を使うことに対して、人々は非常に意識過剰になりました。こちらもぜひ訳すべきですね!
柴田 リチャード・タラスキンも著書『Text and Act』でこの「オーセンティシティ」を批判しているかと思います。
ブラウン 確かに。1970年代と1980年代に古楽復興運動のおかげで正真正銘のHIPが再発見された、という考えを彼は真っ向から否定したのです。それは非常に強い影響を与えたのです。
柴田 オーセンティシティの話題に触れると、また別の問題が浮かび上がります。ブルース・ヘインズの著書『古楽の終焉 The End of Early Music』では、現在、古楽の専門家たちが音楽院で「これが正しい、これがオーセンティックな演奏法だ」と学生に教えるようになっている状況を、本末転倒だと指摘しています。
ブラウン はい、はい! 私たちは過去数十年にわたる「古楽」に関する音楽院でのトレーニングでそれを見てきましたが、現在ではもっと複雑になっていることは知っています。
生徒に何かを教えるということは先生の仕事です。多くの場合、先生は自分が行なっていることを生徒に教えるのです。しかし、知識は徐々に増えていくものですから、状況は常に変化しています。
私は弦楽器奏者なので、弦楽器演奏を主な例として挙げましょう。バロック音楽の弓使いについては、そして、ある程度は今でも、古典派やロマン派の音楽についても、歴史的な証拠を無視した教え方が多く見られます。19世紀後半に発展し、1920年代にカール・フレッシュが著書『ヴァイオリン演奏の技法』で広めた奏法の影響は、今でも広く浸透しています。これは現在でも、弦楽器奏者全員が教わる基本となっています。そして、これは、プロとしてのキャリアの重要な要素として、ピリオド楽器とモダン楽器を演奏する弦楽器奏者の大半が使い分けている弓のテクニックの根底にあるものです。それは、残念なことに20世紀以前に存在したボウイングのスタイルとは明らかに異なります。古くから続く奏法については、ミシェル・コレット(注:18世紀フランスの作曲家。さまざまな楽器や声楽のための教則本を多数出版した)からヨアヒムまでの教則本に書かれており、弓自体は時代とともに変化する一方で、ボウイングのテクニックは時代を超えて引き継がれていったものがありました。
柴田 ええと…(スマホで確認)、コレットは1738年。ヨアヒムは1905年。
ブラウン その通りです。そして、この2つの時代の間にはつながりがあるのです。19世紀後半までは、弓を動かす際に右肩を積極的に使うことはほとんどありませんでしたが、現在ではそれが基本となっています。しかし、モダンのヴァイオリン科やほとんどのバロック・ヴァイオリン科でさえもこのことを完全に無視しています。これは、ほとんどの古楽器の弦楽器奏者を見ればお分かりになるでしょう。
しかし、それは変わりつつあります。例えば佐藤俊介氏のようなピリオド楽器奏者は例外です。おそらく、何十年もかけて徐々に変化が起こり、次の世代の教師が指導するようになったときには、ピリオド楽器の標準的な指導法となるでしょう。また、少なくとも特定のレパートリーに関して、「現代」の指導法にも影響を与えることになるでしょう。
柴田 私の経験に基づく話になりますが…ロマン派のレパートリーをピリオド楽器で演奏する際、とりわけ普段は後期バロックを主に演奏している音楽家と共演する場合、しばしばテンポの柔軟性に関する問題に直面します。例えば、バッハを演奏する際と同じようにテンポを一定に保って演奏する傾向があり、そこから身動きができないのです。
しかし、あなたはいつも授業で、作品の中にはさまざまな要素がテンポの伸縮を生み出す瞬間があると、説いています。アンサンブルの時にそれを互いに共有できないことがあり、テンポ変更の指示がないところで音楽を前のめりにさせるような表現が「ルール違反」であるかのように捉えられる場合もあります。
ブラウン 古楽の演奏家たちは当時の教則本に書かれていることを参考に音楽に向き合っている、つまり、誰もがC.P.E.バッハの教則本を研究しているはずですよね。しかし、彼らはやりたくない部分は無視しているように思えるのです。例えば、C.P.E.バッハが即興で巧みにテンポを変化させることは非常に良いことであり、素晴らしい演奏スタイルには不可欠であると書いています。そして、彼は、優れた音楽家と共演する場合、アンサンブル全体でテンポを速めたり、遅らせたりできると説明しています。そして、経験の浅い音楽家と共演する場合は、彼らでも演奏できるようなテンポ・ルバートを使い、時間をかけて、拍節を乱すことなくテンポを元に戻すことが必要なのです。
柴田 当時、音楽の演奏における一般常識としてルールがあったと思いますか? 言い換えると、教則本で目にするものは、すべてルールだったのでしょうか?
ブラウン 「ルール」は、特定のコンテクストや時代において演奏家が何をしていたかを示すものです。 多くの教則本は、現代的な意味での正式な教育というよりも、特定の演奏スタイルのガイドの役割であったようです。例えば、フランス、ドイツ、イタリアの演奏法の違いを指摘しているものも多くありますが、一方を他方よりも好むという意見が述べられている場合もよくあります。
柴田 私自身も、それらを非常に個人的なものと感じることがあります。例えば、クヴァンツとC.P.E.バッハのトリルやアッポジャトゥーラ(前打音)に関する記述には矛盾がありますが、彼らは同じ時代に同じ部屋で演奏していたのです! なんで?
ブラウン ええ、ええ。彼らは同じことをするわけではありません。なぜなら、彼らの焦点はかなり異なっているからです。また、彼らは異なる楽器を演奏していることも影響しています。鍵盤楽器奏者は、弦楽器や管楽器の奏者、あるいは歌手とは異なる演奏習慣があります。そして、ソリストはアンサンブルの演奏者とは異なる演奏習慣が存在する、と。
柴田 そうですよね。母も昔「ウチはウチ、よそはよそ」って言ってました。違っていても問題ない。
ブラウン ええ、その通りです。
Chapter 4 ロマン派の演奏習慣を考える
柴田 博士の専門である、ロマン派のレパートリーの演奏法について、また、それ以前の演奏法と異なる点についてお話しいただけますか?
ブラウン はい。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを演奏し始めた後、私たちは19世紀後半へと急速に移行しました。ロジャー・ノリントンは、いわゆるロマン派の時代にいち早く進んだ指揮者の一人でした。1988年だったと思いますが、彼はロンドンのクイーン・エリザベス・ホールでベルリオーズの大作を指揮しました。彼は大規模なオーケストラを必要としており、弦楽器のセクションには多くの「モダン」奏者が参加していました。しかし、私はかなりの数の奏者がヴィブラートをあまり使っていなかったのを覚えています。その後、多くの音楽家たちがこの流行に飛び乗りました。 ピリオド楽器オーケストラはすぐにメンデルスゾーンやシューマン、ブラームスの楽曲を時代楽器で演奏するようになり、あまりにも急速に前進したため、誰も何をすべきなのか分からなくなりました。
柴田 観客に向けて演奏していたにもかかわらず、演奏習慣について、彼らは何をすべきなのか分からなかったということですか?
ブラウン ええ、演奏習慣に関してです。私は、論文や演奏習慣の記号付きの19世紀の版での経験に基づいて、ロマン派のレパートリーに関してロジャー・ノリントンにいくつかのアドバイスをしました。また、モーツァルトの演奏におけるボウイングについてもアドバイスしました。当時の正確な年を思い出すのは難しいですが、1990年頃のことだったと思います。
当時、モーツァルトを演奏する際には、弓の中央よりやや下で跳ね上げる奏法が一般的でした。しかし、モーツァルトはこのような弓の使い方は知りません。また、演奏家たちは、弓の上半分で弦を弾くことにかなり抵抗感を持っていました。本当に上手に弾けるヴァイオリニストはほんの数人でした。ロジャーが率いていたロンドン・クラシカル・プレイヤーズのジョン・ハロウェイは、全面的に賛成の立場でしたし、他の数人の演奏家も自分の慣れ親しんだ安全地帯から一歩踏み出す覚悟を決めていました。
しかし、他の演奏家たちはそうではありませんでした。モーツァルトの交響曲第38番のレコーディング中のコーヒー休憩のとき、ヴァイオリニストの小さなグループが互いに話しているのを覚えています。彼らは私が後ろに立っていることに気づいておらず、そのうちの一人が「ああ、あのボウイングはひどい。モーツァルトではありえない。こんな演奏をしなければならないなら、モーツァルトを演奏したくない」と言っていたのです。モーツァルトの演奏にはモダンなスタイルこそが唯一の「正しい」方法であると、これらの演奏家たちが強く確信し、それを変えることに抵抗している様子を目の当たりにしたのは、非常に興味深い経験でした。実際には、「モダン」な演奏法は歴史的な実態とはかなり異なっていたのです。
柴田 演奏習慣において、古典派とロマン派の時代を明確に分けるような違いがありましたか?それとも、もっと段階的なものでしたか?
ブラウン これは非常に難しい質問ですね。なぜなら、私がロマン派の演奏習慣と呼ぶようなことは、18世紀にはすでにかなり見られるからです。しかし、楽器が発展していったわけですから、演奏法も多少は違っていたはずです。例えばオーケストラは、単にオーケストラのリーダーやソリストが指揮するのではなく、指揮者が指揮するようになりました。ですから、確かに変化はありましたが、表現力豊かな演奏の基本的な手法は18世紀にはすでに明確になっていました。
例えば、レオポルト・モーツァルトは、同じ音価の音符が並んでいたら不均等に演奏すべきであると書いています。2つ、3つ、4つ、あるいはそれ以上の音符がスラーで結ばれている場合、最初の音符は長く、他の音符は少し短く演奏し、次の拍に時間どおりに到達すべきであると述べています。同様の習慣は20世紀初頭まで続いていました。カール・クリングラー(1879年生まれのドイツのヴァイオリニスト)は晩年に残した著述のなかで、1900年には誰もが同じ価値の音符を不均等にするこの方法を理解していたと述べていますが、その後、この方法は忘れ去られました。 つまり、このようなレオポルト・モーツァルトから続く演奏習慣は古典派やロマン派の時代でもまだ一般的だったのです。しかしながら、音楽は作品によりそれぞれ求められることが異なり、どの程度リズムの自由さを適用できるかは、レパートリーによってさまざまでした。また、リズムやテンポの柔軟性は、楽譜の文字通りの意味から逸脱する多くの相違点のひとつにすぎません。
柴田 テンポの柔軟性について、また同じ話になりますが、私自身も大切なところで時間をかけるのは構わないのですが、フレーズを速めるのはやや抵抗感があります。古楽を専門にしてきた音楽家としての私の体質には合わないのでしょうか?(笑)
ブラウン 確かに、必要なところで時間をかけて演奏することは一般的に行われます。その一方で、前のめりの演奏は興奮が高まるにつれて自然に生まれる反応であるにもかかわらず、ほとんど耳にしません。学生時代には、繰り返し「走る」ことを戒められました。
柴田 私も、走らないようにメトロノームを使ってパッセージを練習します。一見当たり前のことですが…。
ブラウン おそらく、18世紀や19世紀の学生もそうだったでしょう。しかし、経験豊富な演奏家たちも意識的にアッチェレランドしていました。ただし、効果的にどこでどのように急ぐかを理解しなければならなかったのです。最初期の録音には説得力のある例がありますが、私たちにとっての大きな課題は、こうした習慣が過去の世代においてどのように使われることが期待されていたのか、実際には決して知ることができないということです。
私たちにできるのは、美しい演奏に不可欠な要素とみなされていた表現手段として知られているものを使うことだけです。熟練した演奏家には常に期待されていた、原典(original notation)からの逸脱のさまざまな方法を理解するために絶え間ない努力をひたすら続けるのです。
20世紀に様式上の変革が起こり、作曲家の意図を満たすためには楽譜を忠実に守ることが必要だという考えが強まるまでは、演奏家は楽譜が作曲家の期待に応えるために必要なすべてを語ってくれるとは決して期待していませんでした。熟練した演奏家は「すべての行間を読む」ことができなければならない。そうした言葉は19世紀の芸術家に関する文献に頻繁に見られます。
後編につづく
クライヴ・ブラウン博士 Dr. Clive Brown
クライヴ・ブラウンは、1980年から1991年までオックスフォード大学音楽学部で、その後2015年に退職するまでリーズ大学で教鞭を執った。現在、リーズ大学の応用音楽学名誉教授であり、2017年にオーストリアに移住して以来、ウィーン国立音楽大学の客員教授として教えている。オックスフォード大学およびリーズ大学では、主に歴史的演奏実践を専門とする多数の博士課程学生の指導を行った。現在も、ウィーン国立音楽大学およびライデン大学で歴史的演奏の博士課程学生の指導を行い、ウィーンでは、器楽奏者および歌手向けに古典派およびロマン派の演奏実践も教える。
主な著作には、『ルイ・シュポーア:批評的伝記』(1984年、改訂ドイツ語版2009年)、『古典派およびロマン派の演奏実践 1750-1900』(1999年)、『メンデルスゾーンの肖像』(2003年)がある。また、歴史的演奏実践やその他のテーマに関する多数の論文も発表。『古典派およびロマン派の演奏実践』の改訂版第2版は、2023年現在、オックスフォード大学出版局から刊行準備中。
柴田俊幸 Toshiyuki Shibata
香川県高松市出身のフルート、フラウト・トラヴェルソ奏者。大阪大学外国語学部中退。ニューヨーク州立大学卒業。アントワープ王立音楽院修士課程、ゲント王立音楽院上級修士課程を修了。ブリュッセル・フィルハーモニックなどで研鑽を積んだ後、古楽の世界に転身。ラ・プティット・バンド他の古楽器アンサンブルに参加。2019年にはB’Rockオーケストラの日本ツアーでソリストを務める。2022年には鍵盤楽器の鬼才アンソニー・ロマニウクとのデュオで「東京・春・音楽祭」「テューリンゲン・バッハ週間」などに招聘されリサイタルを行ったほか、2024年6月にはNHK BS『クラシック倶楽部』に出演。2017年より「たかまつ国際古楽祭」の芸術監督を務める。現在、パリ在住。
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