ホールチェアのフォルムに 人と、音との「和」が息づく

デザイナー 川上元美

楽器本来の音を最高の状態で味わえる新ヤマハホール。そこに訪れる人々が直接触れ、長い時間を共にするホールチェアは、インダストリアルデザイナーの川上元美氏が手がけた。「主体はあくまでも人。人が醸し出す雰囲気との調和を持たせながら、どのように居心地の良さを創出しようか考えた」。ホールチェアを手がけるのは初めてという川上氏が、ヤマハホールで表現した椅子のデザインとは。

時代を超えて愛される シンプル、モダンを求めて

 機能を最大限に生かした美。シンプルかつモダンな佇まい。
 新ヤマハ銀座ビルのプロジェクトマネージャを務める中島直樹(株式会社ヤマハファシリティマネージメント)は、川上氏がデザインしたプロダクトに共通してこのような印象を抱いている。

 たとえば『TUNE(チューン)フォールディングチェア』。折りたたみ椅子としての機能と使い勝手を、そのまま美しいスタイリングへと昇華させた逸品だ。耐摩耗性、耐久性、クッション性に優れたウレタン素材のインテグラルフォームを採用、背もたれからアームへと流れるフォルムは、快適と革新を併せ持つ。

 この椅子が発表されたのは1977年。同年開かれた国際チェアコンペティションで一位を獲得した。30年あまりを経た現在においてもなお、そのデザインの魅力は色あせない。中島は、川上氏の「時代を超えても陳腐化しないデザイン」に大きな魅力を覚えていた。「新ヤマハ銀座ビルの建設にあたり基幹となった、“流行にとらわれない、今後100年経っても古さを感じさせない”という考え方と川上さんのデザインは、これ以上ないくらいにマッチしていると思いました」。

 中島が川上氏に依頼したホールチェアのコンセプトはこうだ。
「座り心地がどのホールよりも素晴らしいものを。そしてデザイン的にモダンな部分に、ヤマハらしさを入れてほしい」。

椅子がステージ上の楽器と共鳴


 ホールチェアのデザイン手がけるのは、川上氏にとって初めての経験だ。さらに、どんな劇場よりも座り心地のいい椅子を作ってくれというヤマハの要望には、多少なりともプレッシャーを感じたという。
 
 発注の段階で既にフィクスされている仕様もいくつかあった。たとえば座席の幅や足下の広さ、木材の材質などは消防法に準拠しており、デザインの段階ではもう変更できない。また、背面と座面に使用するファブリックは、度重なる音響効果テストに合格したものに決まっていた。さらに、中島をはじめとするヤマハ側は、ホールチェアが及ぼす音響への影響が一番の気がかりだと異口同音に口にした。椅子を並べてもなお、音響的な性能を確保することが大きな命題だったのだ。

 満席のときも空席のときもステージから届けられる音質が変わらない、それはどういうことなのか。そのことを念頭に置いたデザインをするうちに、ひとつのアイデアが浮かんだ。「人が座っていないときには、座面が縦に収納されて裏側がステージ側に向く。だったら、座面の裏を楽器になぞらえたらどうか」。つまり、ホールの椅子もステージ上の楽器に共鳴させるというコンセプトを持たせたのだ。

 結果、座面裏の材木には弦楽器を彷彿とさせる、なだらかな三次元の曲線が加えられている。16〜18世紀の中頃まで用いられた擦弦(さつげん)楽器のひとつ、ヴィオラ・ダ・ガンバがモチーフだ。人が弦楽器を大切に包み込む光景を思い浮かべ、それをレトリックにしたらどうかと考えたという。また、ステージから客席に届けられる音は、座面裏のカーブによって真っ直ぐには反響せず、ホール中へ四方に拡がっていくはずだ。

 川上氏はこの座面裏の曲線がとりわけ気に入っているという。ヤマハホールに333席の椅子がすべて収まった様子を見た氏は、微笑みながらつぶやくように感想を漏らした。「音の色や優しさが感じられるね。うまく収まってホッとしましたよ」

曲線によって生まれた軽さ、温もり

 このような曲線にひとたび注目してみると、椅子の至るところに生きているのがわかる。座面の両端にほどこされたカーブは、既に座席に着いた人が前を横切る人を通す際、脚を横へ向けやすくするために考案した。厚みと丸みのある肘掛けは、にぎった掌に安らぎを与えてくれる。また、背板の下部に確認できる丸い切り込みはバイオリンのボディを思い起こさせ、軽やかな空気を感じることができる。背板の上部と背中のクッション、収納した座面の上部は、それぞれ平行に同じカーブを描き、ステージ側から見た整然さの中にも穏やかさが息づいているようだ。

 背板や座面裏に使用した木材の塗りは、楽器とほぼ同じ塗装法を用いた。マットな仕上げの床よりも立体感と柔らかさを出すことが目的だ。「椅子とは座った人と共に成り立つもので、あくまでも人が主体。椅子だけを硬質にして顕在化させたくなかった」と川上氏。人が主体であることは、ホールチェアには珍しいランバーサポートの採用にも見て取れる。椅子に座った人の目線が捉える、マホガニーでできた前席の背板は、木目目(もくめもく)で表情を加工した。
 
 最終決定までに川上氏が提示したアイデアは6案。「ヤマハの出す細かい要望にも丁寧に応えてくれた」と、株式会社ヤマハ デザイン研究所 所長の川田学は語る。「ホールの椅子は制限が多くて本当に大変だったと思う。それを肯定的に捉えたばかりでなく、むしろうまく生かしてくださった。我々も見習うべきところです」

日本の和とは、伝承と革新の繰り返し

 中島が川上氏に椅子の依頼をした際、口にした「ヤマハらしさ」について、川上氏は「日本の特徴でもある“和”を体現していること」と捉えている。従来の伝承するものを引き継ぎながら、絶えず異質なものを取り込み、新しくクリエイトすること──いわば「ハイブリッド」こそが日本文化の「和」であるというのが氏の考えだ。

「『サイレントバイオリン』に代表されるようなデジタル楽器でも、手作り感やものづくりの温かみが残っていますよね。もともとヤマハが持っていたアナログ的なものづくりの伝統を引き継ぎながら、デジタルの革新性がうまく交わった、それがヤマハが持つ美点のひとつでしょう」

 この考え方が、今回手がけたホールチェアにも反映されている。本来は無機質な存在である椅子が曲線や塗りなどによって立体的になり、命を吹き込まれたかのような有機的な温かみが宿った。

 「ヤマハは、非常に正統な“和”を持つ会社だと思います」と川上は言う。ヤマハが手がけている日本古来の和楽器と洋楽器、アナログとデジタル、トラディショナルとハイテクの融合といったところにも和の真髄が息づいていると。「西洋音楽が空間を満たすものだとすれば、日本は“間”を大切にする文化。それらが和として交わったときに、もしかしたら日本でしか表現できない新しい音楽や楽器が創出されるのかもしれない。そんなことを、私はこれからのヤマハに期待しているんです」。