Aからの眺望 #0
生まれたての声のように

文:青澤隆明

(c)Manabu Suzuki

 毎日を新しく生きるように、真新しい朝を迎えたい。そう思っていたのは、いつの頃までだったろうか。いまとなっては、いつもと同じ陽が昇り、いつもの顔で沈んでいく。ほんとうに同じはずはないのだが、ちょっとした違いは同じこととみなして、日々を続けていく。

 幼い頃は、毎日が新しかった。なのに、いつから似通った日常になったのか。音楽を聴けば、その曲を知っている、と思う。ただ、知っている気になっている自分がいるだけだ。

 私たちはひとりひとり、泣き叫びながら生まれてきた。そのときのことは、思い出せはしないが、心のどこかではずっと覚えている気もする。内から外へ。ひとつの母胎から、他者との出会いの世界へ。へその緒は切られた。そこで、私たちは私になった。他者との繋がりは自分で回復しなくてはならないことになった。まだそのことを知らないうちから。

 最初に上げたその声を、私たち自身は覚えていない。しかし、人間の産声は、たいていがAの音程をとっているのだという。音楽好きの臨床心理士が教えてくれた。異説もあるというし、私には詳しいことはわからない。自分の場合がどうだったのかも知らない。

 だが、もし人間の最初の発声がある音程にまとまっているのならば、それをひとつの基準としてAと見立てることは、とてもすっきりと腑に落ちる。人間は第一に生命であり、それは自然の一部である。だから、ある音程から音階を組み立てるとしたら、それはこのはじまりの音からであっても不思議はない。わかれの、泣き叫び。生れ出た世界への、最初の挨拶——。

 舞台の上では演奏家がチューニングをしている。はじまりのそのAの音は、今日このときのAの音である。どれだけ昨日に近づけようとしても、そうはいかない。同じことをくり返し再現できないことを、私たちはよく知っている。そして、今日の私を、昨日の私は知り得ない。同じ曲に聞こえても、同じ演奏は二度と起きないし、同じ聴かれかたもない。

 先月聴いた三重奏のステージで、そのピアニストはまず、できるだけ小さな音を出した。音楽をはじめるまえに、ピッチを合わせるためのAの鍵盤を、そっと押したのだ。曲のまえに、できるだけ余計な物音を立てない。という静かな姿勢だった。それでも、その音はすでに感情のはじまりであった。私の耳には、そっとしたその音が、こちらの心をチューニングするように届けられたからである。

 そこに音程を重ねるヴァイオリニストはしかし、そのようにいかなかった。そのこともまた、その後の道行きをはっきりと予見していた。曲がはじまるまえから、音楽ははじまっているのだ。演奏家が楽器を構える以前から。もしかしたら、その曲が譜面に記されるずっとまえから——。

 日々をそう新しくは生きられなかったとしても、2021年にも新しく、うれしいことはいくつかあった。こうして、新しいこの場所で、随想を綴っていく運びとなったのもそのひとつ。コンサートやレコーディングでも、ずっと心に残る出会いはあった。そうしたかけがえのない音楽について、これから少しずつ、ここに書き継いでいこうと思う。

 目のまえには、いつも新たな白紙の輝き。生まれたての声は、まもなく発せられるところだ。そう若くはない喉でも、絞り出される声は、また新しい空気を震わすのである。 明日の朝、私はどのように目覚めるだろう。どんな天気、どのような音楽のもとで——。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる-清水和音の思想』(音楽之友社)。