text:香原斗志(オペラ評論家)
リリコ・スピント、またはドランマティコの大器
ソプラノのなかでも、リリコ・スピント、あるいはドランマティコと呼ばれる、強くて押しのある声種の歌手が不足している。ヴェルディにせよ、プッチーニにせよ、ヴェリズモ・オペラにせよ、そういう声による激しい感情表現を必要とするオペラは数多く上演されているので、リリコ・スピントやドランマティコのための役を歌っているソプラノはいるのだが、満足がいく歌唱になかなか出会えないのである。
たとえば、ヴェルディの《仮面舞踏会》でも、プッチーニの《トスカ》でもいい。いつも次のような声で聴きたいと思っている。湧き出るように豊かで、各音域にわたってムラなく響き、中音域が忠実しているのはもちろん、高音までストレスなく伸び、激しく歌う場面でも無理な力を入れずに自然に表現できる声。元来が豊かであるので絶叫とは無縁である声。そしてフォルテが豊かである一方、ピアニッシモが美しい声。
残念ながら、そういう声は少ない。1950〜70年代には、いまより多かったように思う。だが最近は、元来はリリックな性質のソプラノが無理をして歌っていることが多い。結果として、叫ぶような表現になるばかりか、無理がたたって声を傷めてしまう。あるいは声に余裕がある場合も、フレージングの美しさや響きの色合いに欠けることが多い。
だから、「《仮面舞踏会》のアメーリアにいい歌手はいませんか?」「《トスカ》はだれがいいですか?」などと尋ねられても、首をひねってしまっていたものだが、最近は「サイオア・エルナンデスはどうですか?」と言えるようになった。
スペイン出身のエルナンデスの場合、上記の特徴をそのまま備えているうえに、光沢のあるなめらかな美声で、音圧が強く、発声のどこにもストレスが感じられない。そういうソプラノはもう何年も現れていなかったように思う。そのうえ、彼女はぎっしりと書きこまれた小さな音符を敏捷に追うアジリタも得意なのである。
ソプラノ・ドランマティコ・ダジリタ
ドランマティコ・ダジリタ、すなわちドラマティックな声でアジリタもできる、というタイプのソプラノがいる。たとえば《ノルマ》の表題役がその走りで、ベッリーニは従来にくらべて歌手にかなり劇的な歌唱を要求したのだが、この時代には高度な装飾歌唱の技巧も同時に求められた。だからノルマは難役なのだ。また、ドニゼッティの《ランメルモールのルチア》の表題役は、楽譜にない高音を歌うのが習慣化したこともあって主に軽い声のソプラノが歌ってきたが、初演当時としては、ドランマティコ・ダジリタの役だった。
《ナブッコ》のアビガイッレ、《アッティラ》のオダベッラ、《マクベス》のマクベス夫人など、初期のヴェルディはヒロインのソプラノにドランマティコ・ダジリタの声種を求めているが、それは《ノルマ》や《ルチア》の流れを汲んでのことである。
実は、エルナンデスは《ノルマ》も《ルチア》も歌ってきた。強靭で音圧が強い声でありながら、ベルカントの時代の装飾技巧も難なくこなせ、そのうえ三点Dまでの高音はストレスなく出るからだ。だから、アビガイッレも、オダベッラも、マクベス夫人も、《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラも、ドランマティコ・ダジリタの役はお手のものである。そのうえ、ヴェルディなら《仮面舞踏会》のアメーリアや《アイーダ》の表題役、プッチーニなら《トスカ》の表題役、あるいは《ラ・ジョコンダ》の表題役や《アンドレア・シェニエ》のマッダレーナなど、装飾技巧が不要な役を歌っても音楽的な造形がたしかで、端正な様式のなかに自然に強さをこめることができる。
彼女のキャリアは、まるでソプラノ・ドランマティコの歴史をそのまま辿ってきたかのようだ。ベルカント時代に要求された高度な装飾技巧や、なめらかな響き、強弱の間のスムーズな往復などが身についているから、なにを歌ってもなめらかで、無理がなく、美しいのである。
2020年には、そんな彼女が来日してくれる。9月には《トスカ》の表題役を披露してくれるミラノ・スカラ座の日本公演は見逃せないが、その前に1月28日と31日にも、「プラシド・ドミンゴ プレミアム コンサート」で来日し、数々のアリアやドミンゴとの重唱を聴かせてくれる。ソプラノのリリコ・スピント、またはドランマティコとはこういうものか、と実感できる貴重なチャンスである。
Information
プラシド・ドミンゴ プレミアム コンサート イン ジャパン2020
2020.1/28(火)19:00 東京国際フォーラム ホールA
1/31(金)19:00 サントリーホール
https://www.ints.co.jp
ミラノ・スカラ座 来日公演《トスカ》
2020年9月
https://www.nbs.or.jp/operafestival/
profile
香原斗志 (Toshi Kahara)
オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。