文:青澤隆明
あきらめないこと、そして際限なく求めること。私はそれをさまざまな音楽から教わった。どんな情況であれ、生きていくにはそれだけの構えが必要だ。そして、幸いなことに、ときにはいろいろな音楽が親しく、そして厳しく、長い道行きに寄り添ってもくれる。
2025年もコンサートをたくさん聴いた。大きく振り返るなら、私にとってそれはジョナサン・ノットの1年だった。それと同じくらい多くの機会に触れたのが、北村朋幹の演奏である。

ソロ、コンチェルト、室内楽だけでなく、指揮者として、またプロデュースや編曲を通じても、北村朋幹は独自の探求をくり広げた。広範な時代と地域におよぶ異なるレパートリーの連続だ。リストの《巡礼の年》への挑戦の先には、さらに《旅人のアルバム》やシューベルトへの愛着を聴かせつつ、いっぽうでメシアンの《幼児イエスに注ぐ20のまなざし》へと向かう。20世紀の方角では、1950年以降のヨーロッパをテーマにしたびわ湖ホールでのリサイタルが出色で、ラ・フォル・ジュルネでの《1972年・インドネシア》へと続いた。細川俊夫や西村朗への取り組みも興味深かった。膨大なレパートリーを編み直すように文脈を縫い、各々を饗応させていく地図の拡げかたがとても愉しい。
横綱級にして繊細さをもつ大人の風格をみせたのがイェフィム・ブロンフマン。日本で久しぶりとなる待望のリサイタルでは、シューマンのアラベスクから闊達自在の境を示し、プロコフィエフのソナタ第7番でも余裕ある技巧でやわらかな詩情まで謳った。
第25回を迎えた別府アルゲリッチ音楽祭を担うマルタ・アルゲリッチが、今年の東京公演では、バッハに導かれたラヴェルでピアノ・ソロも聴かせた。野生の水ともいうべき生命感を湛え、世紀のピアニストとしての驚異の活力を放っていた。
ミハイル・プレトニョフが、ベートーヴェンとグリーグでリサイタル。若き日の鬼気迫る先鋭さからは離れた円熟だとしても、ピアノから色彩と情趣を抽き出す自在さにおいて、群を抜く豊かな表現力を示した。


清水和音は、依然コンチェルトや室内楽での活躍が大半だが、秋のリサイタルでも正統派の存在感を端正に堂々と示し、ロマン派と近代のピアノ芸術の粋をていねいに抽き出した。ベートーヴェンを完結した三浦文彰との稀代のデュオのその先もますます楽しみだ。
レイフ・オヴェ・アンスネスは、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団とのブラームスの協奏曲第2番に続き、グリーグ、シューマン、ショパンでのリサイタルでも独特な成熟を聴かせた。音楽が綿密に手の内にあり、素朴さも忘れず、自ずと率直に開かれているのが頼もしい。
イゴール・レヴィットは、シューベルトの変ロ長調ソナタ、鬼気迫るシューマンの「夜曲」、ショパンのロ短調ソナタという独自のプログラムを組み、精細な統制を十全に利かせ、しかし以前よりも拡幅した心情表現を満たしていった。

提供:NHK交響楽団

ショスタコーヴィチの没後50年に《24の前奏曲とフーガ》op.87の全曲演奏に取り組み、まったく異なる容貌でそれぞれ率直な進境を示したのが、ユリアンナ・アヴデーエワとアレクサンドル・メルニコフだ。アヴデーエワの清潔で丹念な構築と、メルニコフの深く濃密な感情表現は、両者のロシアや時代、作品への距離の違いもみせていて興味深かった。

Ⓒ横田敦史/提供:彩の国さいたま芸術劇場

Ⓒ大窪道治/提供:TOPPANホール
ピョートル・アンデルシェフスキが、ピエタリ・インキネン指揮読売日本交響楽団と、バルトークの第3番を、確信をもって堂々と聴かせた。アンコールのブラームスの間奏曲op.118-2では、柔らかな情趣に新たな心境を明かしていた。
アレクサンドル・カントロフが、クラウス・マケラ指揮するロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と共演したブラームスの第1番は、主観的な没入と劇的な気魄、ヴィルトゥオージティの孤高さが圧倒的だった。

©読売日本交響楽団/撮影:藤本崇

©Taichi Nishimaki

©Taichi Nishimaki
バッハへの独自の探求を進めるフランチェスコ・トリスターノが、王子ホールで重ねてきたチクルスで、今年はトッカータ全曲に取り組み、初期作ゆえの多様さをラディカルに描いた。
こちらはチェンバロだが、ジュスタン・テイラーがバッハとイタリアをテーマに瑞々しい光彩を放った。
バッハと言えば、イノン・バルナタンが、自身初のオール・バッハのリサイタルに臨み、誠心で闊達な演奏を聴かせた。東京・春・音楽祭ではまた、ルドルフ・ブッフビンダーがシューベルトの晩年作を熱演。キリル・ゲルシュタインが花とワルツを主題に多彩な作品を織りなしたリサイタルもユニークだった。

©王子ホール/撮影:横田敦史

©ヒダキトモコ/東京・春・音楽祭2025
若い世代に目を向けると、ジャン・チャクムルがミューザ川崎での「夜ピアノ」で、同じくトルコ出身のサイやエセン、バッハ=ブラームス、シューベルトを組み合わせ、知的かつ繊細に聴かせた。アンコールには80年代キング・クリムゾンの名曲を自身のアレンジで巧緻に披露した。
彼に続く浜松国際ピアノコンクールの優勝者、鈴木愛美はシューベルトとフォーレを、ていねいに磨き上げた演奏で結びつけた。
本堂峻哉は、大江健三郎への共鳴から、武満徹のふたつの「雨の樹」の素描で、バッハとシューマンをはさみ、暗喩的な想像力を真摯に掘り下げた。今後の探求が殊に愉しみな知性である。
久末航は一昨年夏に大野和士指揮東京都交響楽団とのグリーグを聴いて、まっすぐな演奏をするいいピアニストだと思ったが、今冬のリサイタルでの濁りない誠心さと端正な構築をいっそう頼もしく感じた。今年5月にエリザベート王妃国際コンクールで第2位を得たことで活躍の場は拡がったが、音楽との純粋な対話の質と確実な技巧は移ろわないだろう。


ヴァン・クライバーン・コンクールから昨年15周年を迎えた辻井伸行は、内外で精力的に演奏活動を行うだけでなく、5年目を迎えた富士山河口湖ピアノフェスティバルや、サントリーホール ARKクラシックスを主導した。辻井が願うように、音楽の楽しさを広く届けるためには、自らの演奏の喜びが不可欠だろうが、彼はいまも純粋に夢中にコンサートに打ち込んでいる。
ショパン・コンクールの年がめぐってきて、第19回の優勝者としてエリック・ルーが選ばれ、12月にはN響との共演が組まれたほか、優勝者リサイタルも行われた。
いっぽうで、前回の優勝者ブルース・リウは、コンクール後に親密に向き合ったチャイコフスキーの「四季」に、スクリャービンの第4番とプロコフィエフの第7番を組む独自のプログラムを組み、柔らかな感性でロシア音楽への進境を示した。
いまから半世紀前にポーランドに久々の栄冠をもたらしたクリスチャン・ツィメルマンは70歳を前にして、この秋のツアーからプレリュード選集を編む新たな試みに乗り出し、12月18日には24の調性を網羅する多彩なタペストリーを結んだ。300年にもわたる諸士の多様な作を鏤め、親密なユーモアや遊興も聴かせたが、細心にして慎重なツィメルマンが大曲を離れて、こうした試行にいたるには長い歳月と変化を要したはずである。

©堀田力丸

©Junichiro Matsuo
アンドラーシュ・シフは昨冬のリサイタルも良かったが、春にはカペラ・アンドレア・バルカの同志たちと、バッハの6つの協奏曲で、融通無碍な楽興を親密かつ自発的に交した。きっと、こういうことが叶えたくて、長らく演奏を続けてきたのだろう。
舘野泉は、新作の委嘱初演になおも意欲的に取り組みつつ、卒寿の記念コンサートでは選びぬいた再演作にいきいきとした充実を聴かせた。尾高忠明と東京フィルハーモニー交響楽団定期で4月に聴かせたラヴェルの「左手のための協奏曲」では難曲にもかかわらず、やわらかで優しい自由を拡げる境地をみせていた。

©Taichi Nishimaki


そして、ジャン=クロード・ペヌティエが生涯最後のステージを、TOPPANホールで結んだ。ブラームスのop.118とベートーヴェンのop.111の間に、若いショパンのノクターンを2曲はさみ、幕開けにはシューマンの《子供の情景》を弾いた。若さと成熟を結びつける選曲だが、ペヌティエの演奏はそうではなく、ひたすらにいまを生きた。ただ目の前のことを最善に叶えることに専心して、音楽への敬愛を慎ましくまっとうしていくまで。安易な感傷や物語のつけ入る余地はない。最後の機会などなく、刻一刻と迫るいまが最新にして最後なのだ。
結局のところ、音楽とは、生きるとは、そういうことではないだろうか――。


©藤本史昭/提供:TOPPANホール


青澤隆明 Takaakira Aosawa
書いているのは音楽をめぐること。考えることはいろいろ。東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。音楽評論家。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる-清水和音の思想』(音楽之友社)。そろそろ次の本、仕上げます。ぶらあぼONLINEで「Aからの眺望」連載中。好きな番組はInside Anfield。
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