
前橋汀子は、デビュー以来60年以上にわたり、日本を代表するヴァイオリニストの一人として演奏を続けるレジェンドである。その前橋が2026年1月8日に、沼尻竜典指揮の愛知室内オーケストラと共演して、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏する。この演奏会について話を聞いた。
——まずは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲への思いをお話しください。
若いときから何回も弾いてきた曲ですが、今回は久しぶりに演奏する機会をいただいて、とても嬉しく思っています。今まで気づかなかったポイントがたくさん出てきましたし、私自身の感情もずいぶん変化していると思います。そんなことが今回の演奏で表現できたら嬉しいです。
ものすごく激しい情熱を内に秘めたコンチェルトですが、それでも気品を失わず、美しい。技術的に難しく、オーケストラの響きも厚いので、音量もなくてはいけません。いろいろな意味で本当に弾きがいがあり、弾くたびに新しい発見もあります。アーティストにとっても特別な曲なんです。なかでも、第2楽章冒頭のオーボエの旋律がとても美しいですね。あの物哀しいメロディを管楽器が印象的に歌ったあとに、ヴァイオリンが模倣するというのは、協奏曲としてとても珍しいと思います。
ずいぶん前に、ブラームスが1878年にこの曲を作曲した、オーストリアの避暑地ペルチャッハを訪ねてみたことがあるんです。ブラームスのヴァイオリン作品は、ヴァイオリン協奏曲が作品77で、ヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」が78と続いていて、どちらもペルチャッハで作曲されているので、どんな場所なのか見てみたくて。
湖畔の町で、時代は変わっても景色はあまり変わっていなくて、家も多くない。ブラームスが散歩したという、起伏のある散歩道や山、こういうとても素朴なところからあの音楽が出てきたのかなと思いました。オーボエのメロディなどはちょっとひなびた感じがしますし。
この1878年というのは、面白いことにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が書かれた年でもあるんです。だからこの年は大豊作(笑)。しかも、チャイコフスキーもスイスのレマン湖畔のクラランで作曲しているので、美しい湖と名曲には、何か関係があるのかもしれませんね(笑)。

——ありがとうございます。ところで、2024年に右肩の腱板を断裂され、翌年に復帰されました。ご心境はいかがでしたか?
今はやっと笑って話せますけれど、7ヵ月ぐらいヴァイオリンを弾けなくて。そんなことは初めてだったんです。こんな終わりかたをするのかなと思いましたが、手術とリハビリで快復して、また弾けるようになりました。そういう時期があったからこそ、何かとても新鮮な、リセットされたような気持ちで、毎回のコンサートに取り組んでいます。
休んでいるあいだは、往年の名演奏家の録音を聴いたり、映像を見たりしていました。ブラームスのヴァイオリン協奏曲では、ジョコンダ・デ・ヴィートがフルトヴェングラーとトリノで共演したライブ録音がいちばん好きなんです。なんともいえず味があって、大好きなヴァイオリニスト。それにフルトヴェングラーの出だしのテンポが素晴らしい。
私の先生のシゲティの録音も素敵です。一貫したテンポ感を大切にと注意されました。今でもシゲティの書き込みのある楽譜を使っています。
映像では、オイストラフの演奏がすごくよかった。ただいいだけではなく、当時のソ連のあの過酷な状況の中で、ああいう演奏がよくできたなと思うんです。あのレベルを保てていることが本当にすごい。


——今回の演奏会で後半に演奏されるショスタコーヴィチの交響曲も、まさにそうした状況から生まれてきたものですが、1961年から64年までレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に留学されて、ソ連時代を肌で知られている前橋さんならではのお話ですね。
今頃になって、ソ連で10代に勉強したことを思い出すんです。いかに上手に体を使うか、体幹が大切かということを、いろいろな角度から教わりました。本当に私にとっては宝物です。
当時は若かったからわからないことばかりで、その後も試行錯誤しましたが、いま考えてみると、練習のしかたであったり、ヴァイオリンとのつきあいかたであったり、音楽との接しかたであったり、あの時代に言われたことが生きている。おかげでこんなに長いこと弾き続けていられる。
オイストラフや他の名演奏家がロシアのあの過酷な日常生活の中で、いかにしてあれだけ素晴らしい音楽を紡ぎ出していたかという原点に戻ると、ああいう経験ができたことは——よかったというと語弊があるかもしれませんね——関係がないことはないかな、とあらためて思います。それを糧にして、一日も長く弾き続けていきたいと思います。

——これからのご活動も楽しみにしております。では、おしまいにお客さまへのメッセージをお願いします。
年が明けて、私の最初のコンサートを名古屋で行えることをとても嬉しく思います。名古屋で協奏曲を弾くのは久しぶりですが、素晴らしいホールで、初共演となる愛知室内オーケストラ、そして何度も共演してきた沼尻さんの指揮で、ブラームスを演奏できることがとても楽しみです。この素晴らしい曲で、今の私のブラームスに対する思いを最大限に表現したいと思います。ぜひ、聴きにいらしてください。
取材・文:山崎浩太郎
愛知室内オーケストラ 第94回 定期演奏会
2026.1/8(木)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール
出演
沼尻竜典(指揮) 愛知室内オーケストラ
前橋汀子 (ヴァイオリン)*
曲目
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.77 *
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 イ長調 op.141
問:愛知室内オーケストラ052-211-9895
https://ac-orchestra.com
SACD『前橋汀子&ヴァハン・マルディロシアン ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ全集(全3曲)』
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル SICC-19090
¥3300(税込)
2026.2/4(水)発売

山崎浩太郎 Kotaro Yamazaki
1963年東京生まれ。演奏家の活動と録音をその生涯や同時代の社会状況において捉えなおし、歴史物語として説く「演奏史譚」を専門とする。著書は『演奏史譚1954/55』『クラシック・ヒストリカル108』(以上アルファベータ)、片山杜秀さんとの『平成音楽史』(アルテスパブリッシング)ほか。
Facebookページ https://www.facebook.com/hambleauftakt/




