先行きの見えない世界情勢のなかで進んだ2025年も、残すところあとわずか。今年も、年末の風物詩、ベートーヴェン「第九」交響曲が日本列島各地で響きました。N響の演奏会にはレナード・スラットキンが元気に登場。12月20日(初日)、NHKホールでのステージの模様を、音楽ライターの飯尾洋一さんに早速レポートしていただきました。

文:飯尾洋一
年末の「第九」は毎年さまざまな指揮者とオーケストラの組合せを聴けるのが大きな楽しみだ。今年のNHK交響楽団の指揮台に立ったのは、レナード・スラットキン。N響とは1984年以来、くりかえし共演を重ねる名匠である。これほど長期間にわたって、継続的に招かれる客演指揮者もまれだろう。
N響とのコンビという点ではすっかり成熟した関係にあるが、スラットキンのベートーヴェンとなると、新鮮味がある。スラットキンは驚異的に幅広いレパートリーを持つ指揮者であるが、出身地アメリカのほか、イギリス、フランスのオーケストラで音楽監督や首席指揮者を歴任してきたこともあって、アメリカ音楽やイギリス音楽、フランス音楽、あるいは20世紀以降の作品をレパートリーの中核に置く指揮者という印象が強い。N響との「第九」は2008年以来ということで、かなり久しぶりの登場となった。20日、NHKホールでの公演を聴いた。

プログラムは「第九」一曲のみ。近年は小編成のオーケストラによるベートーヴェンを聴く機会が増えているが、スラットキンのアプローチはまったく異なる。弦楽器は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが並ぶ伝統配置で、サイズは16型。コントラバス8台の堂々たる編成で、NHKホールの広大な空間に豊かな響きを満たす。合唱を担う新国立劇場合唱団は約100名の規模と、こちらも十分な大きさ。合唱団は開始からステージ上に乗り、独唱陣は第2楽章の後に入場する方式。独唱陣では予定されていたソプラノの中村恵理の代役として、砂田愛梨が抜擢された。メゾソプラノの藤村実穂子、テノールの福井敬、バリトンの甲斐栄次郎といった実績十分の名歌手たちと共演した。

編成の大きさからも察せられるように、スラットキンのベートーヴェンは20世紀のモダン・オーケストラが築いてきた伝統にのっとったもの。テンポの設定やダイナミクスなど、全体の造形は今となってはむしろ貴重なほどオーソドックスなスタイルだといえるだろう。一方で、細部にはスラットキンの独特の工夫が感じられた。第1楽章で顕著だったのは、フレーズの終わりでテヌート気味に伸ばすのか、ややアクセントを付けてくっきりと止めるのか、といったところを明確にした指揮ぶり。輪郭のはっきりしたマッシブな響きをオーケストラから引き出す。第1楽章おしまいで一瞬の空白を入れて緊張感を高めるのも、古風だが劇的。第2楽章のスケルツォは弾むようなリズムで、歯切れよく、推進力豊か。ダイナミックなスケルツォに対して、中間部では滑らかなアーティキュレーションでコントラストを描く。中間部からスケルツォに戻るところで、冒頭動機が省略されていたのは独自解釈なのだろうか。第3楽章ではN響のしなやかで温かみのある弦の音色が室内楽的な親密さを醸し出す。第3楽章から第4楽章へはアタッカで突入。重厚な低弦のレチタティーヴォが朗々と歌われる。満席の会場に向かって語りかけるようなバリトン独唱は説得力十分。「歓喜の歌」では力強い合唱とオーケストラが一体となって、高揚感をみなぎらせる。緊密な二重フーガ、一段と熱量を増したコーダによって、大きなクライマックスを築き上げた。

スラットキンは今年81歳。多くの巨匠たちは年齢を重ねるとともにテンポが遅くなり、しばしば巨大な音楽を志向するものだが、スラットキンの音楽は決して重くならない。持ち前の明瞭さ、明快さは健在で、スタイリッシュといってもよいほど。あいまいな表現を排し、楽想の性格のコントラストを際立たせ、句読点がきっちりと打たれたベートーヴェンを描き出す。ディテールで意外性のあるところはあっても、指揮者のエゴを前面に出している印象はまったくない。指揮棒の動きも相変わらず俊敏で無駄がなく、N響は緻密なアンサンブルでマエストロの意図を実現する。重々しさを装わず、音の運動性や鮮明な響きそのものがもたらす心地よさが、伝統的でありながらもフレッシュさを失わない「第九」を生み出していた。

藤村実穂子、甲斐栄次郎、冨平恭平(合唱指揮)
(写真提供:NHK交響楽団)
【Information】
NHK Eテレ放送
2025.12/31(水)20:00〜
https://www.nhk.jp/g/ts/1JG7WX9P27/blog/bl/pym5pNLeAy/bp/prDk9gx7R6/
ベートーヴェン 「第9」演奏会
2025.12/20(土)16:00 NHKホール
ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125「合唱つき」
指揮:レナード・スラットキン
ソプラノ:砂田愛梨
メゾソプラノ:藤村実穂子
テノール:福井 敬
バリトン:甲斐栄次郎
合唱:新国立劇場合唱団
