時代の病理は繰り返されるのか――
初演100年の現代に突きつける新国立劇場《ヴォツェック》開幕

 今から400年ほど前、オペラという芸術が生まれた頃に題材として選ばれていたのは神々の世界であった。リアルな生活とは対局にある世界を描いていたオペラは、時代が進むほど題材に選ばれる舞台の社会階層が下がっていく。イタリア・オペラでいえば貴族社会を舞台にしていたヴェルディに対し、大衆の生々しい生活を題材に選んだのが19世紀末のマスカーニやレオンカヴァッロらによるヴェリズモ(現実主義)・オペラであった。

 そしてヴェリズモよりも一歩更に進んで、社会の底辺で困窮する主人公を描いたのが1925年に初演されたアルバン・ベルクの《ヴォツェック》である。それ以前からオペラのなかで貧しさが題材になることはあったが、多くの場合は何らかを望んだ代償として生活が苦しくなっていったに過ぎない。ところが兵士ヴォツェックには夢や希望は、はなから存在していないようだ。内縁の妻と子をなんとか食わそうと真面目に働き、人体実験用に自分の身体さえ売っているのだが、状況が改善するどころか悪化していくばかり。これは不条理なのか? それとも社会の歪みが生んだ必然なのか?

左:トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォツェック)
右:アーノルド・ベズイエン(大尉)
左:伊藤達人(アンドレス)

 そんな救いようのない物語が「20世紀オペラの金字塔」に位置付けられてきたのには訳がある。ショスタコーヴィチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》(1934)、ガーシュウィンの《ポーギーとベス》(1935)、ブリテンの《ピーター・グライムズ》(1945)といったアウトローが重要な役割を担う傑作オペラに多大な影響を与えたからだ。《ヴォツェック》を観ずして、20世紀のオペラは語れないのである。1925年の初演から100年という節目を迎えた今年、オペラ部門の芸術監督を務める指揮者・大野和士の肝いり企画として、新国立劇場で新制作された。初日に先立って公開されたゲネプロの模様をお伝えしたい。

(2025.11/13 新国立劇場オペラパレス 取材・文:小室敬幸 
写真:堀田力丸 提供:新国立劇場)

 大野のラブコールで演出を務めたリチャード・ジョーンズは、2005年にもウェールズ・ナショナル・オペラで《ヴォツェック》を演出している(詳細は【コラム】オペラ『ヴォツェック』インパクト×深淵―演出家リチャード・ジョーンズの視点を参照)。そのプロダクションにも登場したという「豆の缶詰」と「ゴミ箱」が今回の演出を読み解くキーワードだ。どちらも上部が開閉する円柱なので、同じ形とみなせる。

左:妻屋秀和(医者)
左:ジョン・ダザック(鼓手長) 右:ジェニファー・デイヴィス(マリー)

 幕が上がると音楽が鳴り始める前から、主人公ヴォツェックは首に下げたスプーンで「豆の缶詰」を食し、「ゴミ箱」に捨て、また新しい「豆の缶詰」を取り出して食べはじめる。しかも、このルーティンはその後も何度となく反復されていく。事前の解説(オペラトーク)でも語られていたように、このオペラは最終場(コーダ)とオペラの冒頭が繋がるように作曲された「円環構造」になっているので、演出でも「円」あるいは「丸」の形が繰り返されているようだ。

 第1幕の第1場、「豆の缶詰」を手にしたままヴォツェックが陸軍の施設に入ると、鼓手長がビリヤードに興じているのも意味深長だ。玉突きとも日本語で訳されるように、自分の意志とは関係なく「玉」が「穴」に落とされてしまうビリヤードは、基本的に相手がミスしない限りは自分にチャンスが回ってこないゲームなのだから。こうしてオペラ冒頭からヴォツェックの悲劇は運悪く偶然生じたものではなく、たとえ人生が何周目であろうと同じことが繰り返されてしまうのだと暗示されていく。

 色から喚起されるイメージも鮮烈だ。大尉、鼓手長、医者といった一般兵より高い地位にいる人物が「赤」の衣裳をまとうことで、台詞に登場する「赤」の危険なイメージ――第1幕ではヴォツェックが火と誤解する夕暮れ、第2幕でのマリーの唇、第3幕での赤い月と血――が強調される。対してヴォツェックを含む一般兵らしき人々がまとう「黄」色い服装は、(オリジナルのオペラには存在しない)ヴォツェックの立ちションを連想させる。血と尿はどちらも人体にあるものだが、排出したくない血と排出する尿では真逆の存在である。そして、インナー(下着)として目に入ってくる「水色」は、人体の多くを占める水分だろうか? ヴォツェックの息子が着ている白地の衣裳に「赤」「黄色」「水色」の模様が散りばめられているのも偶然ではないだろう。まだ可能性が潰されていないのだろうが、母に止められても勇ましい兵器が爆発する映像をテレビで見続ける少年は、まるでYouTube中毒の子どものようだ。

 表面張力のようにギリギリのところで保っていたヴォツェックの精神は、オペラの折り返し地点にあたる第2幕第3場で遂に決壊しはじめる。スプーン(さじ)等をかなぐり捨てる場面がとても劇的なのは、ヴォツェックが文字通り自分の命を削っていたのは、あくまでマリーのためであったのだと痛いほど伝わってくるからだ。日本には「さじを投げる」という慣用句があるけれども、ドイツで「さじを渡す・置く・落とす・捨てる」という表現は、死んでしまえば食事を必要としないことから、誰かが「死にかけている」もしくは「亡くなった」ことを意味するのだという。つまりヴォツェックはマリーを殺す前に、実質的に自分自身を殺していたのである……。

上段左:萩原潤(第二の徒弟職人) 右:大塚博章(第一の徒弟職人)
手前右:青地英幸(白痴)

 ここから先は是非とも劇場に足を運び、ご自身で体験していただきたい。「円」のイメージはこの後も、マリーの死、ヴォツェックの死、遺された息子の将来にも絡んでいくので最後まで目が離せない。ひとつひとつの場が終わる毎に――時おり、場が終わる前に!――黒子のような舞台スタッフが現れて、ダイナミックに舞台装置が動いていくのも観どころのひとつだ。

 そして今回の上演で最も魅力的だったのは、大野和士指揮の東京都交響楽団による熱演である。本作に並々ならぬ思いをもつ大野は、複雑に入り組んだスコアを単純化したり、単なる歌の伴奏にしたりすることもなく、オーケストラも役者であるかの如く饒舌に語らせる。その結果、歌手と管弦楽が対位法的に絡み合って、一緒に演技しているかのような印象を生み出した。
 

 もちろんキャストも良い。主人公ヴォツェックの不安定さを安定感抜群に表現したトーマス・ヨハネス・マイヤー(新国にはたびたび登場しているが、個人的には4年前に聴いたハンス・ザックス役以上にヴォツェック役が適任に思えた)と、悪女にも悲劇のヒロインにもなりきれない等身大の女性としてマリーを演じたジェニファー・デイヴィスの2人がとりわけ心に刺さった。《ニーベルングの指環》のミーメ役を得意とするアーノルド・ベズイエンは、大尉(ヴォツェックの上官)の性格の悪さを、ローゲ役を得意とするジョン・ダザックは巧みな表現でマリーの不倫相手である鼓手長の粗野さを見事に演じた。そして相変わらず安定感のある妻屋秀和の医者だけでなく、ヴォツェックの友人アンドレスを歌う伊藤達人、ヴォツェックの家の隣人であるマルグレートを魅力たっぷりに演じた郷家暁子と、日本人キャストも引けを取っていない。

 全3幕とはいえ休憩なしの約100分で終わってしまうので、R.シュトラウス《サロメ》のように物語は瞬く間に駆け抜けていく。ヴォツェックとマリーの亡き後、遺された息子はどのような運命をたどるのか? 原作が書かれたのは約200年前、オペラが初演されたのは100年前だが、一切古びることなく、現代の貧困問題をリアルに想起せずにはいられないオペラの金字塔を、ご自身の目と耳で存分に味わっていただきたい。これほど充実したプロダクションだが、上演回数はわずか5回なのでお見逃しなく!

上段中央:郷家暁子(マルグレート)

新国立劇場オペラ 2025/26シーズン
ベルク《ヴォツェック》新制作

全3幕(ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付)

2025.11/15(土)14:00、11/18(火)14:00、11/20(木)19:00、11/22(土)14:00、11/24(月・休)14:00
新国立劇場 オペラパレス
予定上演時間:約1時間40分(途中休憩なし)

指揮:大野和士
演出:リチャード・ジョーンズ

出演
ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー
鼓手長:ジョン・ダザック
アンドレス:伊藤達人
大尉:アーノルド・ベズイエン
医者:妻屋秀和
第一の徒弟職人:大塚博章
第二の徒弟職人:萩原潤
白痴:青地英幸
マリー:ジェニファー・デイヴィス
マルグレート:郷家暁子

合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:TOKYO FM 少年合唱団

管弦楽:東京都交響楽団

問:新国立劇場ボックスオフィス03-5352-9999
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/wozzeck/