調律師からみたショパンコンクール ―河合楽器製作所 メインチューナー 大久保英質さんに聞く

高坂はる香のワルシャワ現地レポート 第6回

取材・文:高坂はる香

 今回のショパンコンクールで河合楽器製作所のメインチューナーを務めている大久保英質(ひでみ)さんに、ファイナル直前のお忙しいなか、お話をうかがうことができました。

——Sigeru Kawai SK-EXは1次予選で84人中21人のコンテスタントから選ばれ、ファイナルでもPiotr Alexewiczさん、Vincent Ongさん、Zitong Wangさんのお三方が演奏しています。今回このピアノはいつごろワルシャワに持ってきたのですか?

 ヨーロッパに持ってきたのは半年ぐらい前の今年の4月です。候補のピアノを3台持ってきて、フィルハーモニーホールを事前に何日か借りてステージ上で音を出しながら調整して、5月の段階でメインピアノとサブピアノで2台に候補を絞りました。ただ僕の中では、その時にはもうほとんど、絶対メインはこれにしたいと決めていました。

大久保英質さん。ハードなコンクールの現場では栄養ドリンクは必須!?
©Haruka Kosaka

——そのポイントはどんなところにあったのでしょう?

 まずはやはりワルシャワ・フィルハーモニーホールに一番合っているということです。不思議なのですが、もともと調整としてはどのピアノも鳴り感や音量感は同じようにしているのに、ステージに上げると、ホール全体に響いてくれるピアノと、そこにとどまっている感じで全体に響いてくれないピアノとがあるんです。
 でも実は今回使っているピアノを「これはショパンで使いたい」と思ったのは、もう4年前、前回のコンクールが終わった直後なんです。フルコンサートグランドはほぼ毎月製造していますが、コンクール後の年明けすぐに出来上がったあるピアノの音を聴いたとき、このピアノはいいなぁと思って、ずっと目をつけて育ててきました。

——逸材を発見した瞬間…すごい話ですね。

 ただ、もちろんコンクール用のピアノを決めるにあたっては、開発チームの意向もあります。僕自身もまだ4年前はここでメインチューナーをすることが決まっていたわけではありません。でもある程度自分の判断で、いろいろなコンクールに持っていけそうだな、ショパンに合いそうだなと判断したら、とっておくことができるんです。

——売れないように!

 そうです。コンクールなどに持ち込むための備品のピアノとして、会社で持っておくということです。

——そのピアノを4年かけて育ててきたということですね。

 はい、その後、2回のコンクールで使っています。まずは2022年の仙台コンクールですが、あの時はファイナルで全員がSK-EXを使ってくれました。とくに1位のルゥォ・ジャチンさん、今回のショパンコンクールにも出場していた2位のヨナス・アウミラーさん、3位の太田糸音さんはコンチェルトを2曲ともSK-EXで弾いてくださっています。このピアノはその後(ポーランド、ビドゴシチで開催される)パデレフスキコンクールでも使っています。
 こんなふうにこのピアノにコンクールを経験させながら、ピアニストに弾きこんでもらい、作り込んできた楽器なんです。

ピアノ・セレクションの際には5社の楽器が並んだ ©Haruka Kosaka

——ショパンコンクールに良さそうだと感じるのは、ホールに合うことのほかに、やはりレパートリーに合うことも意識されるのですよね?

 そうですね。ショパンにはやはり、高音の響き方に透明感があって、きれいに鳴る楽器が一番合います。一方で、例えばラフマニノフを弾く時に求められる楽器というのは、また方向性が違います。
 楽器にもそれぞれに長所と短所があって、中低音は普通だけれど高音域はすごく良いとか、その逆とかいうように、どちらかにより良い長所があることがほとんどです。
 ですから、チャイコフスキーコンクールのような場で使うなら、多少荒削りでも、低音域や全体にパワーがある楽器のほうが求められることが多い。でもショパンで使うときは、あくまでも高音域を中心に美しい音が鳴ってくれる楽器でないといけません。
 もともと性格が違うものを無理やりねじ曲げて合わせようとしても、やっぱり辛いし難しいので、もともとそちら寄りの性格のピアノ選びます。

——今回ショパンコンクールの調律で一番大変なことはなんでしょうか?

 今回はありがたいことに多くのピアニストから選んでいただいているので、良い状態をキープするのは当たり前ですが、さらにファイナルステージに向けて、1次より2次、2次より3次とピアノが良くなっていくようにしなくてはないけないところが大変ですね。
 夜中に割り振られた時間に毎日調整をしながらそれを目指しているわけですが、ピアノに触ると毎日本当にわずかにコンディションが違うので、その差を感じながら、さらに良くしていこうと心がけています。

——そもそも調律しているときは、何を聴いているのですか?

 単純に言うとホールの響きなのですが、そのうえでピアノの音作りをしているときにこだわっているのは、なるべく音が人が歌っている声に近づけることです。
 おそらく音楽というのは楽器が存在する前からあって、そのはじまりは歌だと思うので、やはり人の歌声というのは最も心に触れるものなのではないかと思います。すべてはそこを目指して頑張っています。

コンクールでは、休憩時間のあいだなどわずかな時間での調整も必要になる
©Haruka Kosaka

——大久保さんが感覚を研ぎ澄ますために心がけていることは?

 感覚を鋭敏にするものは、まずは経験値、コンクールなどでたくさんの調律を経験してきたことですね。あとは単純に、なるべく寝るようにはしています。もちろん毎日寝不足なのですが、体調が良くないと判断がうまくできなくなってくるので。
 最後の最後は技術力云々ではなく、ちょっとした判断を間違えることが大きな違いにつながります…最高にいい状態になるどころか、全く悪いほうに行ってしまうことがあるので。その判断ミスをすることが一番おっかないです。紙一重なので。
 コンクールの現場では、調整も調律も、本当にギリギリのところを狙っています。これがうまい例えかわかりませんが、例えば、“熟成肉は腐ってしまう寸前のときが一番美味しい”としたら、腐ってしまっては全くだめですが、その手前の本当にギリギリのところを狙うことになります。しかもその状態を保ち、むしろさらに良くしていこうとすると、ますます難しい作業になります。
 そんな極限を攻めた調整をしているからこそ、ひとつのちょっとした判断で、悪くもなるし、良くもなる可能性があるのです。

——いつもカワイを弾くコンテスタントが演奏しているとき、大久保さんはすごく緊張されている印象ですが、調達師さんからすると、その自分の判断ですごくピアノの状態が変わっているとわかるからこそ、そうなるのですね。

 そう、心配になるんです。そのうえ、特にこのコンクールでポーランド人のピアニストが弾いているときは、プレッシャーを一層感じます。先日も、カワイ・ポーランドの同僚たちがポーランド人のコンテスタントの応援に来ていたとき、「彼はポーランドの希望なんだ」と言っていました。ピアニスト自身の将来に加えて、国の期待を背負っている方々の演奏で楽器が足を引っ張るなどということが絶対にあってはいけないと、いつも以上のプレッシャーを感じます。

Chopin Competition
https://www.chopincompetition.pl/en


【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール

第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール

出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


高坂はる香 Haruka Kosaka

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/