ビルギット・ニルソンの故郷を訪ねて 〜20世紀最高のドラマティック・ソプラノの足跡をたどる

ビルギット・ニルソン・フェスティヴァル《アイーダ》公演より ©Johan Lilja

取材・文:後藤菜穂子

前編

 偉大な芸術家の功績をどう後世に伝えていくのか、伝えていけるのか。

 そうした問いを抱きながら、この夏、20世紀を代表するオペラ歌手のひとり、ビルギット・ニルソン(1918-2005)の足跡をたずねて、彼女の生まれたスウェーデン南部のスコーネ Skäne地方を訪れた。

Birgit Nilsson © Birgit Nilsson Museum

 1960~70年代にウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、スカラ座など、世界の大舞台を席巻したドラマティック・ソプラノ。輝かしく強靭な唯一無二の歌声で知られ、とりわけイゾルデやブリュンヒルデなどワーグナーの役をはじめ、エレクトラ、トゥーランドットなどを最も得意とした。1985年にオペラの舞台から引退したあとは、子どもがいなかったこともあり、自分の財産の使い途について熟考し、計画を立てた。それは何よりも、ニルソン自身がオペラの世界で得たものを音楽界に還元したいという思いに支えられていた。 

 「ビルギット・ニルソン賞 Birgit Nilsson Prize」という賞をご存知の方もおられると思うが、これはニルソンが自分の死後、オペラの分野で多大な貢献を行った人物または団体に対して授与してほしいと生前に資金をふくめて準備したもの。3~4年に一回、授与され、賞金は100万ドル。クラシック界の「ノーベル賞」とも称される。第6回となる2025年の受賞団体はエクサンプロヴァンス音楽祭で、授賞式は10月にストックホルムで開催される。

 もうひとつ、生前に彼女が計画し、資金も用意したのが、自分が生まれ育った家をミュージアムにしてほしいということであった。その願いは実行され、彼女が住んでいた当時の様子を残した形で、2010年にミュージアムとしてオープンした。私自身、作曲家のミュージアムは各地で訪れてきたが、クラシックの歌手のミュージアムは今回が初めてだった(調べてみると、イタリア・トスカーナにはエンリーコ・カルーソのミュージアムがあるようだ)。

ビルギット・ニルソン・ミュージアム

 ビルギット・ニルソンが生まれ育ったのは、スウェーデン南西部のビャーレ Bjäre半島。ヘルシンボリから北へ60キロの位置にあり、気候は比較的温暖で、農業が盛んな地域である(現在ではワイナリーもあるぐらいだ)。地元の人に聞いたところによると、この地方のジャガイモの初物は国内でもっとも早く収穫され、最高の品質とされているそうだ。

 彼女が生まれた村ヴェストラ・カルップにいちばん近い町がボースタード Båstad。ここは、アルフレッド・ノーベルの甥で土木技師のルドヴィク・ノーベル(1868-1946)が20世紀初頭に開発し、リゾート地として発展させた街として知られ、夏は国内外から避暑客が訪れる。また国内ではテニスの聖地としても知られ、ノルデア・オープン(スウェーデン・オープン)の会場がある(テニス・スタジアムについては後述)。

ボースタードのテニスコートと港 ©Johan Lilja

 そのボースタードから6キロ、車で10分ほどだろうか。丘の上にニルソンが23歳まで住んだ農家がある。そこからボースタードまでニルソンは自転車で行き来していたという(それで肺活量が鍛えられた、と本人が語っている)。

ビルギット・ニルソン・ミュージアム

 ニルソン家は比較的規模の大きな農家で、平屋の住居も当時としては広いほうだっただろう。彼女は一人っ子で、父親は彼女に農業を継いでほしいと思っていたようだが、その歌の才能に気づいた母親は、ビルギットがストックホルムの音楽院に行けるように費用を工面したという。若きビルギットは農場のあらゆる雑用を――ビーツの間引き、ジャガイモの収穫、干し草の刈り取り、牛の乳搾りなど――をこなしながら、歌手への夢を抱き続け、23歳のときにようやく音楽院に入学した。

© Birgit Nilsson Museum

 さて、現在、ミュージアムは主に3つの建物からなっている。ひとつは住居そのもので、彼女が生きていた当時のまま保存されている。ここはガイド付きで見学できる(要予約)。もうひとつは展示ギャラリーで、そこにはニルソンの子ども時代から栄光の時代まで、写真や舞台衣装、手紙、楽譜、オペラハウスのポスター、そしてさまざまな記念品や思い出の品で振り返ることができる。

 こちらはオーディオガイド(スウェーデン語、英語、ドイツ語)があり、それぞれのキャビネットの説明に加えて、展示に合わせたさまざまレコーディングも聴けるようになっており、サロメやブリュンヒルデ、トゥーランドットなど、彼女の得意とした役の舞台姿を見ながら歌声にひたることができる。とりわけ、スウェーデン王立歌劇場時代の珍しい資料が目を惹く。こののどかな地から首都へ、そして世界へと羽ばたいた様子をじっくり見て回れる展示だ。そして何よりも、本人がこうした記録や品物をすべて大切に保管していたことにも感銘を受けた。

 ギャラリーをじっくり見て回ったあとは、中庭をはさんだ向いのカフェでランチまたはケーキをいただこう。牛舎を改装したカフェでは、キッシュやサンドイッチ、ケーキ――ビルギット・ニルソン自身のレシピを使った「アイーダ・ケーキ」も――などが提供される。

 ミュージアムは、基本的には夏季のみの開館(5月~9月)。住居の見学には予約が必要だ。ちなみに最寄りの鉄道駅、ボースタード駅は、コペンハーゲン中央駅・空港駅から直行で2時間ほど。海沿いのリゾートホテルに泊まるのもおすすめだ。

後編

ビルギット・ニルソン・フェスティヴァル2025

 ビルギット・ニルソン・ミュージアムでは、2018年より毎夏、「ビルギット・ニルソン・デイズ」を開いてきたが、今年から規模を拡大し、「ビルギット・ニルソン・フェスティヴァル」へと形を変えた(8月3~8日)。これはニルソンの生前から行われていた声楽マスタークラスや奨学生のコンサート(ビルギット・ニルソン奨学金制度は1969年に設立)を受け継ぎつつ、より広く一般に開かれた形にして、往年の名歌手の功績を知ってもらおうというねらいがある。

 ビルギット・ニルソン自身、故郷への愛情と自らのルーツへの誇りを生涯、持ち続けた。世界の大舞台で歌っていた時も、そしてとりわけ引退後はこの地で多くの時間を過ごし、地元でのチャリティー・コンサートに出演し、地域社会への貢献にも力を注いだ。

 ニルソンはよくインタビューでジャーナリストから、もっとも長く歌った場所はどこかとか、もっとも好きな公演地はどこかと聞かれ、「ストックホルム王立歌劇場では35年、ウィーンとミュンヘンでは28年、メトロポリタン歌劇場では22年」と答えていたそうだが、後年こう語ったという。「しかし今になって気づいたのだ──故郷のヴェストラ・カルップで最も長く歌っていたのだと」

フェスティヴァルを彼女の故郷で開催する意義はこの点にあるといえよう。

1974年、ヴェストラ・カルップ教会で歌うビルギット・ニルソン ©Hans Karlsson

 今年のフェスティヴァルはとても充実したラインナップで、スウェーデンのソプラノ、カミラ・ティリングを招いての声楽マスタークラス、本年のビルギット・ニルソン奨学生のソロ・リサイタル、野外オペラ公演《アイーダ》に加えて、ミュージアムでのトークやコンサート、ボースタードでの映画上映など、イベントが目白押しであった。また、2025年のビルギット・ニルソン賞(授賞式は10月)の受賞団体であるエクサンプロヴァンス音楽祭との連携プログラムとして、若手歌手によるリサイタルや、同祭の芸術顧問ティモテ・ピカールのトークも行われた。

 ビルギット・ニルソン奨学生のリサイタルが行われたヴェストラ・カルップ教会は、ビルギットが洗礼を受けた教会であり、14歳のときに合唱を始めた場所でもあり、数々のコンサートを開いた場所である。そして今では両親、そして夫とともに眠る。

ヴェストラ・カルップ教会(筆者撮影)
お墓(筆者撮影)

 今年の奨学生のカロリーナ・ベントソンは、すでに幅広いレパートリーをもつリリック・ソプラノ。現在、フランクフルト歌劇場のアンサンブルに所属している。モーツァルトやメンデルスゾーン、バーバーの歌曲ではテキストを豊かに表現、トマの《ハムレット》からのオフェーリアのアリアでは見事なテクニックと高音を聴かせた。ピアノはマグヌス・スヴェンソン。

奨学生のリサイタルより カロリーナ・ベントソン ©Gunilla Hovenäs

 他方、2021年にオープンしたラヴィーネン文化センターでは、マスタークラスのほか、エクサンプロヴァンス音楽祭との提携公演として、同祭のアカデミーの参加アーティスト、メゾソプラノのマリーヌ・シャノン(フランス)とバリトンのジョン・ブランシー(米国)によるジョイント・リサイタルが開かれ、多彩な歌と粋な演出で聴衆を楽しませた。

そして、フェスティヴァル最終日を飾ったのはヴェルディの《アイーダ》の野外公演。一昨年まではミュージアムの駐車場で開催していたが、国内外からの客や避暑客も取り込みたいということから、昨年よりボースタードの有名なテニス・スタジアムに舞台を移した。指揮は、東京春祭などでもおなじみのピエール・ジョルジュ・モランディ、演奏は地元ヘルンシンボリ交響楽団(ちなみに同響の現首席指揮者はマキシム・パスカル)。センターコートにステージが組まれ、PAを使用した公演だったが、ふだんオペラハウスには行かないけれど、たまにはオペラを楽しみたいという観客層を取り込むには良い入り口となる企画だ。観客数は3469人だったとのこと。

《アイーダ》の会場はテニスコート ©Johan Lilja

 タイトル・ロールを歌ったのはクリスティーナ・ニルソン(ビルギットとは血のつながりはない)。ちょうどこの夏は、バイロイト音楽祭での新演出《ニュルンベルクのマイスタージンガー》にエーファとして登場、その日程を縫っての登場であったが、すでにアイーダ役は数年前からレパートリーにしており(3月にはメトロポリタン歌劇場でも歌った)、祖国愛とラダメスへの愛に揺れ動く女性を情緒豊かに演じ、共感を呼んだ。彼女は、ビルギットとは異なり、基本はリリックなのだが、ドラマティックな役も歌えるパワーと芯の強さがある。ワーグナーのエルザやエリーザベトも歌っており、今後ワーグナー方面でも活躍するかもしれない。対するラダメスを歌ったマルティン・ミューレは高音にやや難があったが、経験とスタミナでカバーしていた。

左)マルティン・ミューレ 右)クリスティーナ・ニルソン ©Johan Lilja

 また、急遽代役として登場したセルビア出身のメゾ、ソフィア・ペトロヴィッチが、プライドの高いアムネリスを豊潤な中声とよく通る高音で鮮やかに演じた。そのほか、ランフィス役のクシシュトフ・バチク(今年のエクサンプロヴァンス音楽祭ではレポレッロを歌った)も存在感を示した。モランディはていねいな指揮で歌手をサポートし、オーケストラからドラマと色彩豊かなサウンドを引き出した。また合唱は、ニルソンゆかりのヴェストラ・カルップ教会の合唱団を含め、地元団体の合同で、感情のこもった歌唱を聴かせた。

左)ソフィア・ペトロヴィッチ 右)クシシュトフ・バチク ©Johan Lilja

 なお、クリスティーナ・ニルソンは2015年のビルギット・ニルソン奨学生であり、キャストに過去の奨学生を起用することがオペラ公演の大きなの特色となっている。ほかにもアモナズロ役のフレデリック・ツェッターストレム(2013)、エジプト王のヘニング・フォン・シュールマン(2016)、また上述のベントソンが巫女役など複数の奨学生が出演。こうした形でも、大歌手のレガシーが次世代の歌手たちに受け継がれていく。

 観客は地元および近隣の住民が多かったように見受けられた。地元のスターであったビルギット・ニルソンのことを知っている人も、知らない人もいただろう。でも、これを機に彼女について知り、そういう人が今後ミュージアムにも足を運ぶかもしれないし、動画や音源を検索してみるかもしれない。

 このようにミュージアム、フェスティヴァル、奨学金制度、そしてビルギット・ニルソン賞、とさまざまな組織の人々が力を合わせてこの偉大なアーティストの芸術を後世に伝えていこうという熱意を感じたスコーネでの夏であった。

取材協力:Birgit Nilsson Stiftelsen