
「そこにあるスコアは『くるみ割り人形』、そちらが『サンダーバード』。ジルベスターコンサートに向けて、新しく組曲を編成しているところです」。『戦争レクイエム』公演の翌朝、ジョナサン・ノットはそう話し出した、「そして、《子どもと魔法》。この先も膨大な音符を学ばなくてはなりませんが、それはいつだって興味を掻き立てられることです」。
それにしても広く、そして深く、新たな挑戦を自らに課し続けて、たちまちのうちに12年の歳月が過ぎて行くのだろう。まさしく驚きに満ちた、めくるめく冒険の旅である。ノットの目の前にはいつも新たに発見すべき作品があり、そのひとつひとつが折り重なり、響き合うようにして、東京交響楽団との旅のストーリーを多種多彩に織りなしてきた。
「このシーズン全体が“song”というアイディアに結びついていますが、歌のもつ包容力は大きく全方位的なものです。これまでさまざまな音楽の旅を重ねてきた私と東京交響楽団、そして聴き手のみなさんにとってのセレブレーションという意味も籠めています」

多様な作品に無我夢中のさなかにも月日は経ち、しかしノットと東京交響楽団との理解や信頼、演奏の精妙さや表現の幅はますます拡充し、時を重ねるにつれて豊かな開花をみせてきた。
「時間ということについて考えるならば、『スイスの時計』というのは正確さの顕著な例でしょう? しかし、一秒一秒正確に時を刻むことは、音楽が私たちに語ることの正反対であると私は考えています。そこには魂がないからです。音楽の要点、つまり自分自身を表現する自由を、ほとんど否定しているように思える。私は若い頃声楽を学びましたから、音楽から時計のような重力を取り除きたいとずっと考えてきました。それこそが私が音楽をする理由なのですが、それと同時に、私たちはいっしょに音楽をしたいと望みます。
東京交響楽団の素晴らしいところはまず、集合的なひとつの考えに則って自己を捧げることができる能力です。そうして、毎回のコンサートをたいていは着実に重ねられる。これは個々の考えを喜捨した芸術の賜物で、類稀なことです。ヨーロッパでも大半のオーケストラは、そうしたことが一度はできても、それを保持していくことはできません。しかも、あらゆる異なるプログラムを通じて、東響にはこうしたことが可能なのです。私が大いに愉しんできたのは、たとえばブルックナーを演奏するときのパッション、ラッヘンマンで示された技量の高さ、そしてラヴェルにおける色彩……これだけとっても、じつに多様でしょう」

出会いは突然に——初共演から音楽監督就任へ
数々の挑戦を踏み越えながら、ノットは東京交響楽団との関係を厳しく、そしてやわらかに鍛えてきた。2011年10月定期での初共演を契機に、14年シーズンから第3代音楽監督を務め、欧州ツアーや、モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスの演奏会形式オペラ・シリーズの成功も含めて、オーケストラの演奏水準を明瞭に更新していった。
「12年というのは、人生にとって充分に一章たるものでしょう。そして、音楽は人生と切り離せないものです。それは、音楽の経験を通して、人が成長し、共有された経験へと向かっていくことを意味しますよね? あらゆる人がなにかを分かち合うことを望んでいる、という事実には、非常に美しいものがあります。それが実を結んだ12年間でした。
始まりは思いもよらないことで、初共演で5日間をともに過ごした直後に、『私たちの音楽監督になっていただけませんか?』と言われたのです。その後、音楽監督として最初の2年間を終えるに際しては、この先2、3年続けるだけでは充分ではない、いろいろなことを探し当てるのには時間が足りない、と私は提起しました。そうしていまにいたるのですが、パンデミックで実現できなかったプログラムについても惜しまれますし、東響と取り組みたかったことはまだまだたくさんある。というのも、この終わりもまた素早くやってきたものだから……。
それでも、私たちがともに経験してきたのは、際立ってスペシャルなことです。東響との歳月は実に貴重な時間になりましたし、私にとっては非常に大きな贈り物でした」

「東京交響楽団は多様な作品に機敏に反応し、素早く変化して、オープンになります。東響は非常に寛容なオーケストラなのです。聴衆に対しても、お互いに対しても、私に対しても、ソロイストに対してもそうです。もちろん音楽に対しても――。
私たちはレパートリーをさまざまに交通させてきましたが、先ほどもお話ししたように東響のようにラッヘンマンを表現でき、これほどのパッションを籠めてブルックナーを演奏できるオーケストラは決して多くはない。そうして、ほんとうになにかを物語るのです。モーツァルトでも興味深い演奏をしますし、ベートーヴェンもそうした好例です。
彼らが寛容だと言ったのは、ルールブックを破り捨てることも喜んでするからです。いつもと違うやりかただからと言って拒むならば、成長することはできない。快適であるものにずっとしがみついているのではなく、いつもなにかを壊し続けて行かないといけないのです。ある時点で、安定した水準に達しますが、人間はずっとそれを維持することはできません。いまこれを成し遂げたと考えると、かならず水準は落ち込んで行きます、持ち上げ続けないかぎりは。それは誰にとってもエナジーを要求されることです。私の仕事は、若い頃に膨大な練習を積んできたのは彼らが表現をしたかったから、自分自身を表現し、ほかの誰かに表現したかったからだということを、一人ひとりに思い出させることです。そのための自由を鍛えていかなくてはなりませんが、そうするには寛容であるほかないと思う。日々の違いを愉しむかぎり、そこにはつねに新しいチャレンジがあります」
12年で育まれた聴衆との絆
さらに特筆すべきは、聴衆と築かれた特別な関係だろう。とてもあたたかく、しかし緊張感と興奮に充ちた空気が、あたかも鋭く創造的な音楽冒険を包み込むように、ノットと東響のまわりに広がっている。これは、彼らの演奏活動を通じて、歳月と共感がもたらした最良にして最大の果実を証ししているとも思える。コンサートで演奏が終わったときが、いつも終わりではなく、満ち足りながらも、新たな予兆であるような期待を抱かせる。その連綿とした意思の繋がりが、ノットと東京交響楽団、聴衆のあいだに独特の精神的な連帯を育んできたことは顕かだ。コンサートに行くたびに、私も客席でそのことをつよく実感してきた。
「そのとおり。聴衆のみなさんが、ほんとうに素晴らしい。東京交響楽団のもっとも好きなところを挙げるならば、まず聴衆と言わなくてはいけなかったかもしれませんね。
もちろん12年の間には変化もあり、なにかを言ったり、手を振ったり、握手をしたり、みなさんが自分を表現するようになってきていると感じます。聴衆はまさしく日本で音楽するときの素晴らしい部分を担っていると私は言いたい。聴衆はコンサートの成功の半分ですし、私たちはなにかを交わし合うサークルを築かなくてはいけないのですから。
とくにパンデミックを経て、誰もがアンテナをいくらか鋭く、いくらか強くもつようになったと感じます。あの夏、私たちは事前に収録した映像を介して交響曲演奏を成立させるというリスキーな試みに挑みましたが、望外の成功がもたらされました。私とオーケストラ、そして聴衆の方々の間に、時空を超えた精神的な繋がりが生まれていたからだと思います」

すべては音楽だからこそ、成し得たことだ。異なる一人ひとりが、(たとえ離れていても)同じ場所で、同じ時間を生きる。その結びつきが、人間的な理解と信頼を育んでいく。
「芸術は、小さなことのもつ意味を大きなものに変えます。そこに音楽の本質がある。音楽は、たったふたつの音の繋がりのなかで意味をもちます。次の音が先立つ音の意味を変容させる。つまり、音楽とは、そのときどきのコンテクストのなかで自らを絶え間なく定義していく言語なのです。そこではあたかも時間が存在しないか、少なくともその時間は観察者、すなわち受け手によって決定づけられるものですよね? 私たちはみな時間と関わっていますが、音楽はその全存在を包み込んでいく流れなのです。
ある聴衆が私に言ってくれたんですよ、『ありがとう、マエストロ。あなたの音楽は私に生きる勇気を与えてくれました』と。もし誰かがそんなふうに感じてくれたなら、それがすべてじゃないかな? まさしくそれこそが私たちの12年の歳月のひとつの意味だと思います」
取材・文:青澤隆明
写真提供:東京交響楽団
東京交響楽団 特別演奏会
ラヴェル:歌劇《子どもと魔法》(演奏会形式/フランス語上演/日本語字幕付き)
2025.11/15(土)14:00 東京オペラシティ コンサートホール
演奏/
ジョナサン・ノット(指揮)、東京交響楽団、二期会合唱団(合唱指揮:キハラ良尚)
出演/
小泉詠子(子ども)、加納悦子(お母さん、中国茶碗、とんぼ)、加藤宏隆(肘掛椅子、木)、近藤 圭(柱時計、雄猫)、鵜木絵里(安楽椅子、羊飼いの娘、ふくろう、こうもり)、三宅理恵(火、お姫様、夜泣き鶯)、金子美香(羊飼いの少年、牝猫、りす)、糸賀修平(ティーポット、小さな老人、雨蛙)
曲目/
ドビュッシー:「夜想曲」より〈シレーヌ〉
デュリュフレ:3つの舞曲
ラヴェル:歌劇《子どもと魔法》(演奏会形式)
問:TOKYO SYMPHONY チケットセンター044-520-1511
https://tokyosymphony.jp
他公演
2025.11/16(日) りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 コンサートホール(025-224-5521)
※公演により出演者が異なります。詳細は上記ウェブサイトでご確認ください。




