主人公ふたりが現代の7つの地獄をめぐり見えてきたものとは…
取材・文:中村真人 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
(2025.8/9 新国立劇場 オペラパレス)
2018年に新国立劇場のオペラ芸術監督に就任した大野和士は、日本人作曲家に新作オペラを委嘱する方針をかかげてきた。西村朗《紫苑物語》(2019年2月)、藤倉大《アルマゲドンの夢》(2020年11月)に続く第3弾となるのが、細川俊夫作曲の《ナターシャ》である。
世界初演に先立つ8月9日、ゲネラルプローベ(最終総稽古)が行われた。その模様をお届けしよう。


これほど話題の多い新作オペラもそうお目にかかれないだろう。現代音楽の世界的な第一人者である細川俊夫のこのオペラで台本を手がけたのは、ベルリンを拠点に、やはり世界的規模で読者を持つ多和田葉子。2人は25年ほど前にドイツで出会い、交流をあたためてきたという。細川は、日本語とドイツ語で創作活動を続け、複眼的思考を持つ多和田に「日本初の多言語オペラ」を創る誘いをもちかけた。テーマは人間による地球環境の破壊。自然との一体性を主題にしてきた細川は、近年人間のエゴによる自然破壊を作品に織り込んできたが、多和田によるリブレットを得たことで、どのような総合芸術へと昇華させたのか注目された。演出・美術は、ドイツ出身のクリスティアン・レート。

前列左より:イルゼ・エーレンス(ナターシャ)、クリスティアン・ミードル(メフィストの孫)、山下裕賀(アラト)


前列左:森谷真理(ポップ歌手A) 右:冨平安希子(ポップ歌手B)
オペラは海の情景から始まる。まだ言葉にならない息づかい、やがて「海」という言葉が30以上もの言語で浮遊するように聞こえてくる。細川が言う「言葉が生まれてくるもと=始原の海」である。舞台上のいくつもの層のプロジェクタースクリーンに映し出される波やしぶきの映像が美しい。全体を通じて舞台装置といえるものはほとんどなく、クレメンス・ヴァルターによる映像が大きな役割を担う。
この海で、タイトルロールのナターシャ(ソプラノのイルゼ・エーレンス)と少年アラト(メゾソプラノの山下裕賀)という男女が出会う。どちらも故郷を追われた難民で、アラトは日本語、ナターシャはウクライナ語とドイツ語、それぞれの母語で話すために2人は意思疎通ができない。そこに姿を現し、ナターシャとアラトを木のない森へと誘う男が、ゲーテの『ファウスト』に登場したメフィストの孫と名乗る人物(バリトンのクリスティアン・ミードル)。当然彼はドイツ語で語り、歌う。この作品ではさまざまな言語の響きや語りに浸りながら、突然わかる言葉が聞こえてきたり、あるいはわからなくなったりということが、波のように繰り返される。まるで言葉の海をたゆたっているような感覚は、かつて味わったことのないオペラ体験だ(ゆえに日本語と英語の字幕の存在がありがたい)。



木のない森(=第1場「森林地獄」)に連れてこられたナターシャとアラトは、地球の地獄を案内しようというメフィストの孫の申し出を受け、「地球のうめきが聞こえる底」に旅立つことになる。いよいよここから7つの地獄めぐりが始まるわけだ。
第2場「快楽地獄」は、快楽が義務付けられた世界で、リゾート地が舞台。細川作品の常連であるサクソフォンの大石将紀とエレキギターの山田岳がロックバンドで登場し、コミカルな身振りのポップ歌手(森谷真理と冨平安希子)の歌とともに気だるい雰囲気を生み出す。即興によるロックの強烈なノイズ。そして、現代社会の消費の象徴であるプラスティックの音を使って海の汚染を伝える手法は効果絶大だ。

前列右:タン・ジュンボ(ビジネスマンA)

第3場「洪水地獄」では、厳粛な雰囲気の中で宗教音楽が流され、混沌とした世界が表現される。第4場「ビジネス地獄」では、一転してミニマルミュージックが主導するリズミカルな音楽が展開。今度は合唱団が「じゃらじゃら」「ばりばり」「へとへと」など、この地獄の内実を示す擬音語で歌い、舞台に活気が生まれてくる(このオペラでは、時折顔を覗かせる多和田独自の言葉遊びにもご注目を)。仲良くなろうとするナターシャとアラトに向かってメフィストの孫が歌う中の「愛ある人は負け犬」という台詞が印象に残った。殺伐とした世界で2人へのさらなる試練を暗示するかのように、ここで幕が下ろされ休憩時間に入る。



マルクスの『共産党宣言』からも引用されながらデモ隊がぶつかり合うのが、第5場「沼地獄」である。声高に叫ばれる言葉の数々はしかしどこか空虚で、現実的な力を持ち得ることはない。デモ行進の集団に踏みつけられたナターシャをアラトが救うと、2人は強く愛を感じ合い眠りにつく。ここでの「ブライプ・バイ・ミア」(私のそばにいて)など、あえてドイツ語のカタカナ表記を字幕で示すところに、言葉そのものの力を際立たせようとする作家の意思を感じた。
すべてが焼きつくされる第6場「炎上地獄」で、ナターシャは長大なアリアを歌う。細川が「自分のオペラで初めて調性音楽を使った」というハ短調のアリアでは、「青い地球で唯一の化け物」となった人間への嘆きが切々と歌われる。細川の音楽の新境地であり、ここから第7場「旱魃(かんばつ)地獄」にかけてのハイライトは、実際に劇場で体験していただくしかない。ナターシャとアラトが地獄の底辺から「新しい言葉」を見出すまで、圧倒的な映像とともに展開される。さらに、バンダも含めた大野和士指揮東京フィルハーモニー交響楽団、全編を通じて目覚ましい活躍の新国立劇場合唱団、20以上のスピーカーを配した有馬純寿の担当による空間の音響設計など、あちこちで五感が刺激され、オペラという総合芸術がまだまだ可能性を秘めていることを示した巨大な成果だと思う。



クリスティアン・レートが語るように、細川と多和田が《ナターシャ》で思い描く地獄は、この作品の源泉となったダンテ『神曲』の神話的な冥界と違い、すでに私たちが生きる現世そのものだ。洪水、炎上、干ばつ、ビジネス地獄に取り憑かれた某国権力者……。これらを報じるニュースを見ても無力感を感じるばかりだが、同じ地獄ならば《ナターシャ》を観ようではないか。ここには希望の萌芽がある。終幕で地獄の底からトンネルを抜けて新しい次元が開けるとき、私はなにか新しい生を授けられたような気持ちになった。
新国立劇場 オペラ
細川俊夫《ナターシャ》新制作 創作委嘱作品・世界初演
全1幕(日本語、ドイツ語、ウクライナ語ほかによる多言語上演/日本語及び英語字幕付〉
2025.8/11(月・祝)14:00、8/13(水)14:00、8/15(金)18:30、8/17(日)14:00
新国立劇場 オペラパレス
台本:多和田葉子
作曲:細川俊夫
指揮:大野和士
演出:クリスティアン・レート
美術:クリスティアン・レート、ダニエル・ウンガー
衣裳:マッティ・ウルリッチ
照明:リック・フィッシャー
映像:クレメンス・ヴァルター
電子音響:有馬純寿
振付:キャサリン・ガラッソ
出演
ナターシャ:イルゼ・エーレンス
アラト:山下裕賀
メフィストの孫:クリスティアン・ミードル
ポップ歌手A:森谷真理
ポップ歌手B:冨平安希子
ビジネスマンA:タン・ジュンボ
サクソフォーン奏者:大石将紀
エレキギター奏者:山田岳
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
問:新国立劇場ボックスオフィス03-5352-9999
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/natasha/



