INTERVIEW イ・ヒョク(ピアノ)

2021年第18回ショパン国際ピアノコンクールでファイナリストとなり、翌2022年にはロン=ティボー国際音楽コンクール ピアノ部門で亀井聖矢とともに優勝して注目を集めた、イ・ヒョク。
2016年に16歳で優勝したパデレフスキ国際ピアノコンクールの直後に初来日、そして2018年には浜松国際ピアノコンクールで第3位となるなど、日本のピアノ愛好家の間では長らく親しまれる存在だ。
そんな彼が今回届けるのは、休憩2回の三部構成によるオール・ショパン・リサイタル。この秋、第19回ショパン国際ピアノコンクールへの再挑戦も決まっている中、集中して向き合い、磨き上げたショパンを届けてくれる。
いくつもの経験を経て、さらに深い解釈へ
「前回のショパンコンクールは、キャリアの大きな転機となる出来事でした。あれから本格的に演奏活動を始めた中で、できるだけショパンを演奏するよう心掛けてきました。そうして彼の作品を広めることがファイナリストの使命だと考えていたからです。そして演奏するたび、ショパンの音楽に恋していると感じました。毎回感じ方が変わり、新しいアプローチを模索しています。すべてが楽譜に書かれていないからこそ、解釈者としてさまざまなことを探求できるのです」
プログラムは、ピアノ・ソナタ第2番、第3番の両曲も入るチャレンジングな内容だ。
「特に2番の葬送ソナタは、最近、前回のショパンコンクール後に初めてマネージャーになってくれたポーランドの方が亡くなったこともあって、特別な想いで演奏します。大切な人の死を経験し、悲しみを抱えてこの曲を弾くと、突然何かが変わることを体験しました」
さらに「最近夢中になっている」後期作品も多く取り上げる。
「幻想ポロネーズや舟歌、ポロネーズ第5番op.44などは、初期作品に比べてハーモニーや構成が複雑で、より哲学的です。なかでも幻想ポロネーズは宇宙のようで、挫折や深い悲しみ、希望を追い求める心を感じます。最後に安堵するようなファンファーレが響きますが、僕はこれは本物のファンファーレではない…つまりタイトルの通りあくまで“幻想”で、実際には鳴り響かなかったのではないかと思うのです」

果てしなく広く、無限の可能性を感じるショパンの音楽
2000年韓国生まれのイ・ヒョクは、14歳から6年間、モスクワでウラディーミル・オフチニコフに師事。その後、パリのエコール・ノルマル音楽院で学び、卒業後はパリとワルシャワを拠点とする。
「ロシアのピアノスクールはとても優れていて、演奏法はもちろん、和声や音楽史など音楽全体を理解するうえで多くを学びました。一方のパリでの勉強はより自由で、また、美術館や街そのものからも多くを得ています。
最近長い時間を過ごしているワルシャワでは、先日、国立美術館に行きました。そこにはショパンの時代の画家の作品がたくさんあり、彼らが描いた農村の絵にはすごくインスパイアされました。マズルカなどのダンスはそこで生まれたものですからね」
作品に向き合い、書籍などから情報を得ることに加え、ワルシャワとパリというショパンが生きた街で過ごすことで、少しずつ作曲家に近づこうと試みている。
「ショパンは鋭い感性を持ち、些細な変化に気づく敏感な人です。それは彼の音楽に表れ、だからこそ、調性やテンポの変化のすべてがとても重要なのです。楽譜の中に特に多くの感情が込められているショパンは、他の作曲家より一層難しく、挑戦しがいがあります」
難しいからこそ挑むといえば“山”を思い浮かべがちだが、ショパンの場合は山という例えがどこか似合わない。
「確かに、バッハのゴルトベルク変奏曲に挑むなら“山”という感じがしますが、ショパンの場合は…“海”かもしれませんね。果てしなく広く、探ると可能性が無限にある。少し近づけたと感じても次の日にはどこかに行ってしまって、もしかすると永遠に捕まえられないかもしれません」

「人から必要とされる音楽家になりたい」
作品に感情移入するほど、ステージで冷静でいることとのバランスをとることがより難しくなる。しかしイ・ヒョクはチェスの名手。そのあたりの感情コントロールはお手のものだろうか。
「確かに関連する部分はあるかもしれません! チェスはとても難しいマインドスポーツです。例えばあなたがとても強い相手と対戦し、勝ちが見えてきた状況を想像してください。今優位に立っていても、最終的に勝たなければ全く意味がありません。勝ち切るその瞬間まで、すべての手を想定し続ける必要があります。油断した瞬間、相手が持つわずかな手の可能性を見逃し、負けることもあるのです。ピアノ演奏も、最後の最後まで200%の集中力を保たなくてはいけません。演奏者の集中力が切れると、聴衆の集中も途切れます」
コンクールに挑みながらキャリアを切り拓く彼は、どんなピアニストを目指しているのだろうか。
「モスクワで勉強していた頃、ハッとする経験がありました。その日はサンクトペテルブルクでグリゴリー・ソコロフの演奏会がありましたが、激しい雨が降っていました。ペテルブルクまでは電車で4、5時間。でも当時の僕の室内楽の先生は、ソコロフのコンサートに行くというのです。『こんな荒天でも行くのですか?』と尋ねると、先生は『もちろん、それでも行く価値があるから』と答えました。1時間半の演奏会を聴くため、大雨の中、人はペテルブルクに行くんだ。そう思ったとき、僕もそんなふうに人から必要とされる音楽家になりたい、そして自分の音楽を世界の人と分かちあいたいと感じたのです」
7月のリサイタル、そして秋のコンクールで、「自分の新しい視点や知識をもとにしたショパンを披露できることが楽しみ」と意気込む。今彼が辿り着いた地点から見えるものを分かち合ってくれることだろう。
取材・文:高坂はる香
イ・ヒョク ピアノ・リサイタル
2025.7/4(金)19:00 浜離宮朝日ホール
オール・ショパン・プログラム
夜想曲第17番 ロ長調 op.62-1
ワルツ第2番 変イ長調 op.34-1「華麗なる円舞曲」
幻想曲 へ短調 op.49
スケルツォ第2番 変ロ短調 op.31
ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 op.44
マズルカ op.41
ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.35「葬送」
ポロネーズ第7番 変イ長調 op.61「幻想」
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58
※21:30頃終演予定(途中2回の休憩含む)
問:朝日ホール・チケットセンター03-3267-9990
https://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/