前橋汀子が集大成として奏でるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ

©野口博

 ヴァイオリン界のレジェンド・前橋汀子が、アルメニア出身のピアニストで指揮者のヴァハン・マルディロシアンとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集(第1〜10番)のディスク(ソニーミュージック)を完成、うち7曲からなる「名曲選」コンサートを2月22日&24日、東京の浜離宮朝日ホールで行う。

 ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、最初の9曲が1797〜1803年と比較的若い時期に書かれた作品だ。

 「モーツァルト(1791年没)のすぐ後なので、絶対に影響を受けています。『もう10年遅くヴァイオリン・ソナタを書いていてくれたら、どうなっていただろう?』とは思いますが、若いなりに生き様の変化や作曲の進歩が感じられます。その後のベートーヴェンはソナタに代わり、弦楽四重奏曲を通じてヴァイオリンで弾く音楽の深い世界を究めていきました」

 前橋は桐朋学園時代からの仲間で東京クヮルテット創立メンバーの原田禎夫(チェロ)の協力を得て、久保田巧(第2ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)と“前橋汀子カルテット”を結成して2023年までの10年間、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に集中して取り組んだ。

 「原田さんはご自身の経験を通じ、演奏の根拠を言葉で説明できます。私にもステージで弾いて初めて得られる知識があり、若い2人から受けた影響も大きかった…。弦楽四重奏曲によって、ソロとは違う視点からベートーヴェンの新たな側面に気付かされました。10代から弾いてきた曲の同じフレーズにも『ああ、こういうことだったのだな』と、より深いものが見えるのです。ソロに対する見方や気分も一新されたところで、どうしてももう一度、自分の集大成としてヴァイオリン・ソナタの全曲を世に問いたいと思いました」

 前橋がベートーヴェンのソナタを最初に録音したのは1986年2月のハイデルベルク、第5番「春」と第9番「クロイツェル」でクリストフ・エッシェンバッハのピアノだった(ソニーミュージック)。「ディスクは長く残るものだからと考えて慎重に構え、最初のCDを出したのは40歳の頃でした」と振り返る。2023年6月〜24年1月に岐阜市のクララザールでセッション録音した全曲盤(2月12日発売予定)、浜離宮朝日ホールの名曲選とも、ピアノにはヴァハン・マルディロシアンを起用した。1975年、アルメニアの首都エレヴァンに生まれ、パリ音楽院でジャック・ルヴィエに師事。さらにニューヨークで、クルト・マズアから指揮法を学んだ。日本では伝説の大ヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリス(1922〜2020)最晩年の伴奏者として注目を浴びた。

 旧ソ連時代のレニングラード(現サンクトペテルブルク)に留学した前橋。「私もギトリスの演奏会で聴いたのが最初で、それまで面識はなかったのですが、一聴して素晴らしいピアニストだと気に入りました。ひょんなご縁で共演の機会を得てわかったのは、アルメニア時代に受けた旧ソ連の音楽教育システムが彼の基盤にあり、さらにパリで才能に磨きをかけた音楽家だということです」といい、共通のルーツを意識する。最近は指揮者の活動も増えて表現の幅を増しつつあり、「音楽のつくり方や感じ方で共感する部分がとても多いのです」。

 浜離宮朝日ホールのプログラムは2月22日が第1・3番と第5番「春」、第7番「アレキサンダー」、24日が第4番と第9番「クロイツェル」、第10番という順番。「演奏時間も考えて第4番を2日目に回しましたが、後はほぼ番号順です」。

 第7番は今回演奏しない第6&8番と作品30の三位一体をなし、当時のロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されていることから、かつては「アレキサンダー・ソナタ」と呼ばれた。最近ではこの呼び名はあまり使われないが、前橋の名曲選では「アレキサンダー」と明記されている。「献呈は事実ですし(恩師の)ヨーゼフ・シゲティ先生もこう呼んでいらしたので、私も踏襲しました」。

 バッハやベートーヴェンの名演奏家だったシゲティ(1892〜1973)をはじめ、ダヴィッド・オイストラフ、ヤッシャ・ハイフェッツ、ナタン・ミルシテイン、ミッシャ・エルマン、アルテュール・グリュミオーら20世紀の巨匠の演奏に生で触れ、何人かからは直接教えも授かった前橋の存在自体、すでにレガシーの域に達している。
取材・文:池田卓夫 写真:野口博
(ぶらあぼ2025年2月号より)

前橋汀子
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ名曲選
2025.2/22(土)、2/24(月・休)各日14:00 浜離宮朝日ホール

出演/前橋汀子(ヴァイオリン)、ヴァハン・マルディロシアン(ピアノ)
曲目/
【2/22】ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第1番、同第3番、同第5番「春」、同第7番「アレキサンダー」
【2/24】ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第4番、同第9番「クロイツェル」、同第10番

問:朝日ホール・チケットセンター03-3267-9990
https://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/