文:岸 純信(オペラ研究家)
歌声とは絵筆のようなもの。オペラに専念するならダイナミックな油絵風のタッチでアプローチするが、歌曲なら水彩画のように内省的な表現も要求される。特に歌曲の場合、基本的にはピアノが声に寄り添うのみなので、両者で詩興を自由に、繊細に膨らませるのだ。
いまや日本の春の風物詩たる東京・春・音楽祭の「歌曲シリーズ」では、今年も選りすぐりの名歌手たちが登場。例えば、ドイツ生まれのクリスティアン・ゲルハーヘルは、シューマンのみで二晩のステージを挙行。初回(3/19)のメインは全12曲が“自然の在り方”で結ばれる「リーダークライス」op.39のようだが、筆者が特に注目するのは、彼が「3つの歌曲」op.83全曲を披露すること。というのも、本作第1曲の〈あきらめ〉は、失恋の苦しみを切々と歌うもので多くの男声が取り上げるが、第2曲〈献身の花〉は「ひたすら愛を待て」という歌で女声が好む曲なので、この名バリトンがそこをどう表現するかと純粋な興味を覚えたからである。

©Gregor Hohenberg
また、第二夜(3/22)では、長大な歌曲集「ケルナーによる12の詩」を選曲。シューマンのリートといえば“歌とピアノが対等”という一大特徴があるが、今回のピアニスト、ゲロルト・フーバーなら、ゲルハーヘルの密やかな歌い回しを支えつつ、第1曲〈あらしの夜の楽しみ〉の絶え間ない連打や第3曲〈旅の歌〉の長い後奏もきりっと纏め上げることだろう。このほか、晩年期の「3つの詩」op.119では、第2曲〈戒め〉の複雑な音運びとちょっとした厭世観を、ゲルハーヘルがどう描き出すかも聴きもの。以前インタビューした折、彼は照れながら「以前はもう少しハイ・バリトンの色合いが強かったでしょうが、年を重ねて声が暗く重くなりつつあるから、いつまで青春を歌えるか分からないけれど」と話していたが、上記の〈戒め〉のような曲ならなおのこと、ベテランならではの自然な表情付けが期待されるのだ。

©Marion Köll
続いては、スイス出身のテノール、マウロ・ペーターをご紹介。まだ30代後半だけに、「枯れていない」声音を誇る彼だが、今回はシューベルト三大歌曲集の一つ「美しき水車屋の娘」を取り上げる(3/18)。作曲者自身もテノールであったと伝えられているだけに、この声種の明るさが活きるリートは多いが、ペーターの持ち声にはひときわの滑らかさがあるので、本作冒頭の〈さすらい〉の溌溂とした感から、終曲〈小川の子守歌〉における哀悼の念まで、巧みな息遣いで堪能させてくれるに違いない。なお、ピアノの村上明美はドイツ国内で幅広く活躍中の注目株。落ち着きと温かみを絶やさぬ彼女のタッチにも注目してほしい。

©Christian Felber

そして、グアテマラ出身の新星ソプラノ、アドリアナ・ゴンサレスについて(4/8)。若手ながら、彼女の歌の完成度の高さには目を見張るものがある。アルベニスやグラナドスなど母語スペイン語の歌はもちろんのこと、ロベール・デュソーとエレーヌ・コヴァッティという作曲家夫妻の近代フランス歌曲からは、国籍や人種を超える「楽譜と歌声の見事な共振ぶり」が聴き取れるのだ。デュソーの音運びもコヴァッティのそれも共にフォーレの影響が強いとはいえ、彼ら独自の平明さや率直な訴えかけが旋律に息づくので、「一段ずつ階段をじっくりと登るような」静かな高揚感が曲に満ちてくる。中でもデュソー〈機会〉やコヴァッティ〈サアディの薔薇〉では、ゴンサレスの声の厚みと明晰な発音が官能性を引き出して圧巻だと思うので、この機にぜひ、生の歌声を体験してもらえれば。バスク出身のイニャキ・エンシーナ・オヨンの語り掛けるようなピアノも、デュソー〈神託〉の前奏部など――題名とは裏腹に曲調は親しみやすい――で体感できるだろう。

©Marine Cessat-Bégler

©Marine Cessat-Bégler
なお、今回の東京・春・音楽祭では、オペラに出演する新世代の歌手たちにもご注目いただきたい。まずはプッチーニ・シリーズ《蝶々夫人》(4/10, 4/13)のピンカートン役で来日するジョシュア・ゲレーロは、アメリカのラスベガス出身で、イタリア・オペラに人一倍熱心なテノール。直情的な声音を丁寧に操るので情熱と理性が歌に並び立つ。第2幕の悔悟のアリアが大いに楽しみである。

©Soloman Howard
続いては、《こうもり》(4/18, 4/20)のロザリンデ役を歌うモルドヴァ生まれのヴァレンティーナ・ナフォルニツァ。モーツァルトやベルカントものを得意とするソプラノだが、まだ30代なのに声が見事に熟し、ブラッディ・オレンジのような濃色の色合いで迫ってくる。オペレッタの楽しさも、彼女一流の“大人の表現力”でより深く味わえるだろう。

© Alex Iordache
そして、クウェート生まれのバス、タレク・ナズミもご紹介。ミュンヘンで育ち、先述のゲルハーヘルにも師事したドイツ系の若手だが、彼も実年齢を超える喉のパワーを有するので、今回もワーグナー・シリーズ《パルジファル》(3/27, 3/30)のグルネマンツや、合唱の芸術シリーズでのベートーヴェンの宗教曲「ミサ・ソレムニス」(4/4, 4/6)で出演とのこと。前回の来日時(2023年歌曲シリーズで、シューベルトの「冬の旅」でゲロルト・フーバーと共演)にも好評を得たように、柔らかく深いが明度も高いその声音から、“慈愛と品格に満ちる歌”が聴けるのではと、今から大いに楽しみにしている。

©Marco Borggreve
(ぶらあぼ2025年2月号の拡大版)
【出演者変更】
《蝶々夫人》ピンカートン役で出演を予定していたジョシュア・ゲレーロは、都合により出演ができなくなりました。
代わりまして、ピエロ・プレッティが出演します。
詳細は下記ウェブサイトでご確認ください。(2/5主催者発表)
https://www.tokyo-harusai.com/news_jp/20250205/
東京・春・音楽祭2025
東京春祭 歌曲シリーズ vol.41
マウロ・ペーター(テノール) & 村上明美(ピアノ)
2025.3/18(火)19:00 東京文化会館(小)
●曲目
シューベルト:美しき水車屋の娘 D.795
東京春祭 歌曲シリーズ vol.42
クリスティアン・ゲルハーヘル(バリトン) & ゲロルト・フーバー(ピアノ) I
2025.3/19(水)19:00 東京文化会館(小)
●曲目
シューマン:5つのリート op.40、リーダークライス op.39、3つの歌 op.83、ロマンスとバラード 第3集 op.53、レーナウによる6つの詩とレクイエム op.90
東京春祭 歌曲シリーズ vol.43
クリスティアン・ゲルハーヘル(バリトン) & ゲロルト・フーバー(ピアノ) II
2025.3/22(土)18:00 東京文化会館(小)
●曲目
シューマン:6つの歌 op.107、ケルナーによる12の詩 op.35、3つの詩 op.119、ガイベルによる3つの詩 op.30、6つの歌 op.89、リートと歌 第4集 op.96
東京春祭 歌曲シリーズ vol.44
アドリアナ・ゴンサレス(ソプラノ) & イニャキ・エンシーナ・オヨン(ピアノ)
2025.4/8(火)19:00 東京文化会館(小)
●曲目
デュソー:心が目覚めるとき op.10-2、機会 op.10-1、神託 op.2-2、さようなら op.2-1、君の涙に捧ぐ op.5-1、エレジー
コヴァッティ:《ダフネ》より〈サアディの薔薇〉、酔いしれたい、うんと言ったよ
アルベニス:2つの散文、愛は多くのことのようなもの、「ベッケルの詩」より、「4つの歌」より
グラナドス:「スペインの粋な歌曲集」より、「愛の歌曲集」より
オブラドルス:「古いスペインの歌」より
東京春祭プッチーニ・シリーズ vol.6
《蝶々夫人》(演奏会形式)
2025.4/10(木)、4/13(日)各日15:00 東京文化会館
●出演
指揮:オクサーナ・リーニフ
蝶々夫人(ソプラノ):ラナ・コス
ピンカートン(テノール):ジョシュア・ゲレーロ
スズキ(メゾソプラノ):清水華澄
シャープレス(バリトン):甲斐栄次郎
ゴロー(テノール):糸賀修平
ボンゾ(バスバリトン):三戸大久
ヤマドリ(バスバリトン):畠山茂
ケート(ソプラノ):田崎美香
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ 他
《こうもり》(演奏会形式)
2025.4/18(金)、4/20(日)各日15:00 東京文化会館
●出演
指揮:ジョナサン・ノット
アイゼンシュタイン(バリトン):アドリアン・エレート
ロザリンデ(ソプラノ):ヴァレンティーナ・ナフォルニツァ
アデーレ(ソプラノ):ソフィア・フォミナ
ファルケ博士(バリトン):マルクス・アイヒェ
オルロフスキー公爵(メゾソプラノ):アンジェラ・ブラウアー
ブリント博士(テノール):升島唯博
フランク(バスバリトン):山下浩司
イーダ(メゾソプラノ):秋本悠希
管弦楽:東京交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ 他
東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.16
《パルジファル》(演奏会形式)
2025.3/27(木)、3/30(日)各日15:00 東京文化会館
●出演
指揮:マレク・ヤノフスキ
アムフォルタス(バリトン):クリスティアン・ゲルハーヘル
ティトゥレル(バスバリトン):水島正樹
グルネマンツ(バス):タレク・ナズミ
パルジファル(テノール):ステュアート・スケルトン
クリングゾル(バス):シム・インスン
クンドリ(メゾソプラノ):ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ 他
東京春祭 合唱の芸術シリーズ vol.12
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》
2025.4/4(金)19:00、4/6(日)15:00 東京文化会館
●出演
指揮:マレク・ヤノフスキ
ソプラノ:アドリアナ・ゴンサレス
メゾソプラノ:ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー
テノール:ステュアート・スケルトン
バス:タレク・ナズミ
管弦楽:NHK交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ 他
問:東京・春・音楽祭サポートデスク050-3496-0202
https://www.tokyo-harusai.com