アレクサンダー・ガジェヴが語る最高峰コンクールの実像
いま思う“ショパンらしさ”とは?

Alexander Gadjiev ©Vitoria Nazarova 

5年に一度、世界中の若きピアニストがその頂点を目指す「ショパン国際ピアノコンクール」。コロナ禍で1年延期され、2021年に行われた前回大会では、反田恭平さんが日本人として50年ぶりに第2位に入賞し、熱狂に包まれました。その栄誉を反田さんと分かち合ったのが、スロヴェニアとイタリアにルーツを持つピアニスト、アレクサンダー・ガジェヴさん。情熱と知性をあわせ持つ彼は、その後もたびたび来日し、聴衆を魅了し続けています。今回、新しく始まるドラマを目前に、あの特別な舞台の裏側から、彼が考える“コンクールの意味”や“ショパンを弾くということ”まで、たっぷり語っていただきました。

—— 入賞直後のガジェヴさんがどんな夢を語っていらしたか見返したら、「一つのことに特化しない音楽家になりたい。ジャンルにとらわれず即興演奏もしたい。いつも可能性を感じられる自分でいて、簡単に結論をつくらないようでありたい。常に新しいことを見つけられる音楽家でいたい」と話していました。この4年、それはうまくいっていますか?

 時々はうまくいっているし、時々はうまくいかないこともありますね! 世の中にはいろいろなタイプの“探求者”がいます。すべてを計画するのが好きな人、人生の驚きを楽しみたい人。僕は後者で、驚きに満ちた人生を送りたいタイプです。
 その意味で、例えば今年は故郷のゴリツィアで欧州文化首都を記念する特別な企画に携わることができたし、また11月の来日では、友人と2台ピアノで即興をする公演も実現します。一般的なクラシック演奏家の活動をこえた挑戦はエネルギーを要しますが、貴重な経験です。
 驚きに満ちた人生が実現するかは、どれだけのリスクを取るかによります。幸い僕は外科医やパイロットではありません…彼らが朝目覚めて突然「今日はリスクをとってみよう!」なんて言い出したら大変です(笑)。でも演奏家はリスクをとってこそで、むしろそうでなくてはアーティストといえません。
 特にピアニストは一人で演奏しますから、比較的リスクを取りやすいでしょう。魔法の道具を通してさまざまな印象を生み出し、それがうまく行けば人に多くのことを示唆できます。
 よく「演奏家は作曲家に仕える存在で、常に謙虚であるべき」といわれます。でも僕は、ソリストについてはそうは思いません。計画のうえ完璧に作り上げることより、孤独を受け入れ、直感を信じ、その瞬間を最大限に生きるほうが大切です。

©Vitoria Nazarova

—— すでに多くのコンクールで入賞し、両親もピアニストというガジェヴさんは、ショパンコンクールに挑戦する中プレッシャーを感じる場面もあったのでしょうか?

 期待されていたかもしれませんが、コンクール中はそれは考えませんでした。考えないほうがいいですよね。誰かのためにと考えたら、1次予選で姿を消すことになっていたでしょう。
 それもあって緊張もしていませんでした。自分の弱点を気に留めるのではなく、強みを伸ばすためにできることをやるという方法でコンクールに備えましたから。あとはヨガをすることで心の安定を得ていました。
 若くして、技術だけでなく感情も見事にコントロールできる人もいます。ただそれが必ずしも良いことではないのは、過去を振り返って誰もが知ることです。感情を細かくコントロールし続けることは、負担になります。そして感情をよい状態に保つ方法は、人に教わることはできません。人生の中で自分で見つける必要があります。
 そしてコンクールのように制限のある場では、自由な発想の余地がなくなりがちです。でもそれをどう受け止めるかは、自分次第。ルールに従うのか、特別な要素だけ重視するのか、なにも気にせず自由に自分の演奏をするのか。その状況に気付き、自分の方法を選ぶことが重要でしょう。
 ちなみに僕の場合は、いつもより少しだけバランスを意識しましたね。テクニックを見せすぎているようなら引く。感情的すぎるなら少し抑える。普段の自分とちょっとだけ違う自分になれるか試す時間でした。

2021年のショパンコンクールより ©D.Golik / The Fryderyk Chopin Institute

—— さまざまな夢があるガジェヴさんにとって、ショパンコンクールでのタイトルはその実現を助けてくれたのでは?

 それはそうですね。タイトルがなくてもいくつかの夢は叶ったでしょうが、より大きな規模で実現できたのは確かです。夢を前に進めるには何らかの評価が必要で、ショパンコンクールは間違いなく特別なものの一つです。
 僕は競争心の強い人間なので、コンクールに参加することは好きで、これまでいろいろ受けてきました。一方で生まれつき競争を好まない人がいることも知っています。彼らには、コンクールは自分を表現するのに最適な場ではないでしょう。
 かつてホロヴィッツは審査員を務めた際、自分が評価した人が優勝しなかったことで、以後審査を引き受けなかったそうです。その時彼が見出した問題は、“審査員は最高のものを探すのではなく、最悪のものを排除しようとしている”ということでした。それでは正直あまりおもしろいピアニストは見出されません。
 もちろんいつもそうとは限らず、例えば個人的にはユンチャン・イムのクライバーンコンクールでの演奏は特別だったと思います。その後の彼のコメントを見ていても、特殊な才能だということがわかりますよね。
 コンクールはもっと親密な音楽や突き抜けた個性を評価するほうがおもしろいかもしれません。社会は人の考え方の集合で動きますから、今後100人の考えが変わることで後ろが続き、やがてショパンコンクールも、親密な音楽を評価する実験的な形に変化するかもしれません。
 また今の音楽界で僕が感じているのは、“秘密”の部分が足りていないことです。英語では「secret(秘密)」と「sacred(神聖)」という言葉は似ています。すべてが見えれば人は興味を失います。あらゆるところにカメラがあり、全てが見えてしまうのはどうかなと思う時もあります。
 アーティストは、秘密や未知の部分を残しておくことが必要でしょう。自分でも次に何が起こるかは分からない、そんな感覚を大切にすべきだと思います。

©D.Golik / The Fryderyk Chopin Institute

—— 前回のコンクール後、結局ショパンコンクールで求められたのはどんな演奏だったのかという議論が交わされました。ガジェヴさんはショパンらしい演奏ってどういうものだと思いますか?

 良い問いだと思います。
 一つは、感情や意味のない音をひとつも弾かないということ。ショパンは生徒に一日三時間以上練習しないよう言っていたそうですが、それはすべての音に集中しろという意味で言っていたのだと思います。彼の練習は、いつも充実していたでしょう。
 ただ同時に全ての音に常に意味を持たせつつ、決して露骨にはしないという、矛盾する要素を両立させないといけません…ちょっと京都の人たちみたいなイメージでしょうか(笑)。明確に表現しきれない感覚があるから、そこをあえてはっきりさせずに残しておくことも重要になります。
 もう一つ重要なのは、技術的に自然に従うということです。膨大な量の超絶技巧練習曲を書いたリストとは違って、ショパンはメカニカルな演奏には興味がありませんでした。手指にはオーガニックな動き…いわば動物のように迷いのない自然な動きが求められると思います。犬やリス、魚を見れば、その動きは自然そのものですよね。

©D.Golik / The Fryderyk Chopin Institute

—— なるほど、わかりやすいですね。ポーランド的な感性が必要と言われるだけだと、なかなか理解するのが難しいですから。

 確かにショパンの音楽には非常にポーランド的な特徴もありますが、ポーランドらしさに明確なものが存在するかというと、僕はそうは思いません。ショパンがポーランドの一種のメランコリックな精神を説明する時に使った「zal」という言葉が示す感情は、この国が隣国に脅かされていた社会的背景に結びつくものです。ただそれはポーランドだけに固有の感情ではないと思うんです。多くの国が、戦争や文化的な抑制を経験していますから。
 ショパンの手紙を読んで彼がどれほど故郷を恋しく思っていたか、スラヴ的な要素やカトリックの感性も理解する必要はあります。そうして学ぶほど、人の想像力は広がります。
 そうした政治的背景を知ったら、演奏するときにはすべてを忘れるべきです。もしその要素がショパンにとって最重要事項なら、彼は作曲家でなく政治家になっていたでしょうから!
 重要なのは、そんな環境をもってしても、彼が美に人生を捧げる決断をしたということです。ショパンを的確に演奏するには、一種のレジスタンスの感情を理解して、その先にある美しい音楽に辿り着く必要があります。それらを越えた先にある音楽こそが、永遠の価値を生み出すのです。

取材・文:高坂はる香

​アレクサンダー・ガジェヴ 来日情報

ピアノ・リサイタル
2025.11/11(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
プログラム

シューベルト:
 「即興曲集 D935」から第1番 へ短調、第2番 変イ長調、第3番 変ロ長調
ショパン:バラード第4番 ヘ短調 op.52
チャイコフスキー:ドゥムカ op.59
プロコフィエフ:
 10の小品 op.12から「伝説」
 束の間の幻影 op.22から
 バレエ『シンデレラ』からの10の小品 op.97から「夏の精」「秋の精」「冬の精」「東洋風の踊り」
 バレエ『シンデレラ』からの6つの小品 op.102からワルツ「シンデレラと王子」
 ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 op.83 「戦争ソナタ」

問:ノヴェレッテ050-6878-5760
https://www.novellette-arts.com


他公演
2025.11/13(木) 札幌コンサートホール Kitara(オフィス・ワン011-612-8696)

ソロ+2台ピアノ即興
共演:アンドレア・ミアッツォン(ピアノ)
2025.11/15(土) 八ヶ岳高原音楽堂(八ヶ岳高原ロッジ0267-98-2131)
11/17(月) 武蔵野市民文化会館(小)(0422-54-8822)
11/19(水) カワイ表参道 コンサートサロン パウゼ(03-5485-8511)

協奏曲
カーキ・ソロムニシヴィリ(指揮) スロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
2025.11/24(月・祝) 横浜みなとみらいホール(神奈川芸術協会045-453-5080)
11/27(木) 東京芸術劇場 コンサートホール(ジャパン・アーツぴあ0570-00-1212)
11/29(土) 大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)


【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール

第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール

出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


高坂はる香 Haruka Kosaka

大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/