リコーダー&コルネット奏者である濱田芳通が率いる古楽アンサンブル「アントネッロ」は、大胆かつ生き生きとした演奏でバロック以前のさまざまなレパートリーに独自のアプローチで光を当て、クラシック音楽界に新風を吹き込んできた。今年8月にサントリーホールで上演されたヘンデル《リナルド》が大きな話題を呼んだのも記憶に新しい。快進撃の続く彼らが、まもなくバッハの「ミサ曲ロ短調 BWV232」(以下、ロ短調ミサ曲)に取り組む。
このミサ曲は、カンタータなど既存の作品からの転用も多いなど成立背景が複雑で、楽章ごとに作曲時期が異なる。バッハが唯一ミサの通常文すべてに作曲した記念碑的大作であるが、通して演奏された記録は残っておらず、謎の多い作品でもある。ルター派の教会のためのドイツ語によるカンタータを毎週のように量産していたバッハが、1730年代頃からラテン語作品を多く書くようになったのはなぜなのか。実は当時、ライプツィヒでもルター派の日曜礼拝でラテン語のポリフォニックな作品が演奏されることは珍しくなかった。バッハ自身も若い頃からラテン語のテキストをもつ音楽に興味をもっていたと思われ、実際バッサーニ、カルダーラ、パレストリーナなど他の作曲家のラテン語作品を書き写して研究している。
楽章ごとに際立つコントラスト
自筆のオリジナル・スコアには、各部分に4つの通し番号が振られており、バッハ自身もまとまった作品として捉えていたことがわかる。死の前年である1749年終わり頃まで、このミサ曲の完成に取り組んでいた。カンタータは基本的に教会暦に基づいて演奏機会が決まっていたのに対して、ラテン語通常文のすべてに付曲したミサ曲を書くことで、より普遍的な作品を残そうとしたのだろうか。楽章ごとにガラリと変わる、そのスタイルの多彩さは他に類を見ない。
バッハは、自身の過去から現在までのあらゆるスタイルを統合しようとするとともに、これが“白鳥の歌”であるという意識が強かったのではないかと濱田は語る。
「あらゆるスタイルを駆使して書かれていますよね。作曲家が全力を尽くすということは、そういうことなのかもしれないのですが、バッハにとって人生最後の曲、これまでの集大成という意識があったのではないかと思います。
キリエは追悼ミサとして、続くグロリアの〈地には平和あれ Et in terra pax〉は祝典のために書かれたとされていますが、あたかも追悼ミサの続きとして、これから行くであろう天国を描いているような感じがします。私はクレドの〈天からくだり Et incarnatus est〉が最後の作品であるとの説をと信じています。前奏部分の展開などは、同じく絶筆の“モツレク”における〈ラクリモーサ Lacrimosa〉にちょっと似ていますよね。
ソロの曲は、ベネディクトゥスやアニュス・デイなどを除けば、楽しい感じの曲が多いですよね。たとえば、モンテヴェルディ「ヴェスプロ(聖母マリアの夕べの祈り)」の〈私は色は黒いが Pulchra es〉もそうなのですが、言ってしまえばラブソングを持ってきている感じですよね。完全に、バラエティに富んだスタイルを持ってくるところに意識が働いているので、それぞれの楽章のもつ特徴を強調する形で演奏して問題ないと思うのです」
ロ短調ミサ曲は前述のように、自身の過去作からのパロディが多いが、濱田は、バッハが同時代の他の作曲家の作品の中からもさまざまなアイデアをとってきて膨らましていると考えており、“ネタ元”を発見することに日夜勤しんでいるという。取材時には、特定したというネタ元の作品を聴かせてくれた。来場者にプログラムで種明かしがあるかどうかはわからないが、そうしたネタ元のフレージングや構成などをヒントにすることで、演奏にあたってのアイデアを得ることができるのだという。
「曲自体がデフォルメしていくという方向性なので、演奏にあたっても、僕はそういった特徴をデフォルメしていくスタンスです。作曲家自身も、おそらくそうしたかったはずなのです」
一方、第2キリエや〈あなたに感謝を捧げます Gratias agimus tibi〉(終曲〈われらに平和を与え給え Dona nobis pacem〉も同曲)など伝統的な対位法で書かれた楽章も大きな聴きどころとなる。
「フーガこそが、誰にも真似できないところですよね。バッハの凄さには、オルガンで即興演奏のインパクトで圧倒したという側面もありますが、一方しっかり譜面に書いても、ここまで完璧にできるのか!と。しかも数による秘密のメッセージなども織り込みながらですから。みんな嫉妬すらできずにいたのではないでしょうか」
アントネッロ流の解釈が随所に
濱田のアプローチは、楽譜の読み込み方にもアイデアが満載だ。今回の演奏では、2分の4拍子で書かれた〈Gratias agimus tibi〉と〈Dona nobis pacem〉をあえて2分の3拍子で捉えるという。
「この2曲に関しては、合唱の人たちにはパート譜で歌ってもらいます。それによって、少しだけ音楽が変わってくるんです。器楽はオリジナル通りの楽譜を使うので、小節番号がズレて、練習のときちょっと面倒になると思うんですけどね(笑)」
合唱はメリスマティックな動きも多く、バッハの声楽作品のなかでも最も高度なテクニックが要求される。歌手は総勢18人と、オザンナで最大8声の複合唱となることを考えると少人数だが、これまでにも「マタイ受難曲」などでパワフルな歌声を聴かせた鈴木美登里、中山美紀、彌勒忠史ら精鋭メンバーが見事なアンサンブルを聴かせてくれるだろう。ソロの楽章で、曲によりソリストが変わるのもアントネッロ流。「特にベネディクトゥスやアニュス・デイなどスローなテンポの曲では、装飾も交えて歌ってもらいますので、曲をよく知っている方も楽しめると思います!」と濱田。また、ソロの曲では、オブリガートの器楽も聴きどころだが、常連メンバーに加え、今回アントネッロ初参戦となるフラウト・トラヴェルソの柴田俊幸やコルノ・ダ・カッチャ(ホルン)の塚田聡など、ピリオド楽器の腕利きたちが揃った。敢えてチェンバロを抜いたという通奏低音に、ハープとリュートが加わるのも楽しみだ。
アントネッロの躍動感あふれる演奏の根底にあるのは、リズムとそれがもたらすエネルギーの変化への飽くなきこだわりだ。ミサ曲という伝統的な形式においても、アプローチの基本姿勢に変わりはない。小節線の存在など、楽譜という視覚から来る情報からいかにして離れ、作曲家の頭のなかに鳴り響いたはずのサウンドそのものをイメージするか。最晩年のバッハの脳裏にあった心象風景を映し出すステージとなる。昨年の「マタイ受難曲」に続く宗教曲の金字塔への挑戦。今回も驚きに満ちた「ロ短調ミサ曲」を届けてくれそうだ。
取材・文:編集部
【Information】
濱田芳通&アントネッロ 《第18回定期公演》
J.S. バッハ:ミサ曲ロ短調
2024.11/11(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
【指揮】濱田芳通
【合唱】
ソプラノ1:大森彩加、金沢貴恵、中川詩歩、中山美紀
ソプラノ2: 陣内麻友美、鈴木美登里、 野間愛(4声、6声の時はアルト1)
アルト1:(野間愛)、彌勒忠史
アルト2:中嶋俊晴、新田壮人
テノール1:田尻健、中嶋克彦
テノール2:川野貴之、前田啓光
バス1 :坂下忠弘、谷本喜基
バス2:清水健太郎、松井永太郎
【管弦楽】アントネッロ
トランペット:斎藤秀範・大西敏幸・金子美保
ティンパニ:井手上達
コルノ・ダ・カッチャ:塚田聡
フラウト・トラヴェルソ:柴田俊幸・武澤泰子
オーボエ/オーボエ・ダモーレ:小花恭佳・小野智子・倉沢唯子
ファゴット:長谷川太郎・鈴木禎
ヴァイオリン I:天野寿彦・阪永珠水・廣海史帆
ヴァイオリン II:大光嘉理人・大下詩央・遠藤結子
ヴィオラ:伴野剛・本田梨紗
チェロ:武澤秀平
ヴィオローネ:布施砂丘彦
リュート:高本一郎
ハープ:伊藤美恵
オルガン:上羽剛史
問:アントネッロ info1★anthonello.com(★を@に変えてください)
アントネッロ
https://www.anthonello.com