すべて暗譜。作品の真実を知らしめ、作曲家の魂に寄り添う演奏
親日家として知られ、日本にも多くのファンをもつピアニストのイェルク・デームスが、2019年4月16日に亡くなった。享年90。フリードリヒ・グルダ、パウル・バドゥラ=スコダとともに「ウィーンの三羽烏」と呼ばれ、世界各地で幅広く活躍した。
デームスは1928年12月2日、ウィーンの西に広がるザンクト・ペルテン生まれ。父親は高名な美術史家、母親はヴァイオリニストである。6歳でピアノを始め、11歳でウィーン音楽アカデミーに入学し、ピアノと指揮を学ぶ。14歳のときにウィーン楽友協会でデビュー。指揮をH.スワロフスキー、J.クリップス、作曲をJ.マルクス、オルガンをC.ワルター、ピアノをY.ナット、W.ギーゼキング、W.ケンプ、A.B.ミケランジェリ、E.フィッシャーをはじめとする偉大な音楽家に師事している。21歳から世界各地でデビュー公演を次々に行い、56年ブゾーニ国際コンクールでの優勝を機に著名な指揮者との共演も増していく。
デームスは幅広いレパートリーを誇り、とりわけJ.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ドビュッシー、フランクでは定評があったが、最後の来日となった2018年11月28日の紀尾井ホールでのリサイタルもこれらの作品で、あふれるロマンと抒情性豊かな特有のピアニズムを披露した。
E.シュヴァルツコップ、D.フィッシャー=ディースカウら歴史に名を残す著名な歌手との共演も多く、古楽器の演奏解釈の権威としても知られる。教育者としても日本をはじめ世界中に数多くの生徒をもち、ザルツブルク郊外の拠点「ムゼオ・クリストフォリ」には歴史的な楽器を多く所有し、ここでは毎夏マスタークラスも開催していた。デームスはどんな作品でもすべて暗譜で演奏することで知られていたが、ヴァイオリンの生徒がブラームスのソナタをレッスンにもってきた場合も楽譜を受け取らず、すぐに暗譜でピアノパートを弾き始め、歌手の伴奏も同様だった。レッスンはとてもきびしいもので、一人ひとりの生徒の個性を尊重し、音楽的資質をいかに伸ばすことができるかを真摯に考え、全身全霊を傾けて指導に当たるものだった。
デームスの演奏はウィーンの空気を濃厚にまとい、えもいわれぬ詩情にあふれ、豊かな歌心に満ちていた。その演奏は聴き手の心の奥深いところにゆったりと浸透し、作品の真実を知らしめ、作曲家の魂に寄り添うものだった。日本には定期的に訪れ、東日本大震災の直後にも来日公演を行った。80歳を迎えた2008年12月2日の東京バースデー記念リサイタルでは、ライヴ録音を残している。
ウィーンの伝統を守り、薫り高きピアニズムを最後まで貫いたデームスは、ピアノに向かう姿がとても美しかった。楽器とともにうたい、感情を吐露し、作品の内奥へと聴き手をいざない、ともに音楽のすばらしさを謳歌した。ステージを離れるととても寛大でユーモアがあり、みんなを温かく包み込むような人柄だった。謹んでご冥福をお祈りいたします。
文:伊熊よし子