
取材・文:伊熊よし子
5月に行われたエリザベート王妃国際コンクールでファイナリストとなり、一躍注目を集めた桑原志織。これまでに、ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクール(2021)、ブゾーニ国際ピアノコンクール(2019)、ヴィオッティ国際音楽コンクール(2017)、マリア・カナルス国際音楽コンクール(2016)でそれぞれ第2位を獲得している。エリザベートコンクールは、他に類をみない課題の過酷さ(準備した2種類のプログラムの片方のみ演奏する、ファイナリストには1週間にわたる隔離生活が待っている、など)で知られるが、いずれのラウンドでも堂々たる演奏を聴かせてくれた。その体験を経たいま、10月のショパン国際ピアノコンクール出場(予備予選免除で出場が認められた)に向けて、どんな心境にあるのか、7月下旬にインタビューに応じてくれた。
――エリザベートコンクールは「世界三大ピアノコンクール」のひとつと称され、参加者にとっては、とても厳しい内容と日程となっていますね。新曲課題の協奏曲もありますし…。
桑原 私は2021年にルービンシュタインコンクールを受けたときに、エリザベートコンクールが同時期に重なっていたため、ルービンシュタインの方に参加しました。その時、エリザベートをパスしたことがずっと頭の隅に残っていて、今回ある知人から「エリザベートは受けないのか」と聞かれ、改めて考えてみました。年齢のこともありますし、これまで国際コンクールはいくつか受けましたが、「三大コンクール」と呼ばれるものは受けていませんでしたので、熟慮した結果、締め切りぎりぎりの時期、2024年11月に書類を提出しました。

実はその直後、12月初旬にショパン・インスティテュート(NIFC)から連絡があり、審査基準の変更により、それまでの指定コンクールで第2位以上を獲得した人は書類審査と予備予選が免除されるため、参加資格があると伝えられたのです。これには本当に驚きました。まだ、エリザベートに出場できるかどうかもわからなかったので、本当に悩みましたが、大きなチャンスだと考え、ショパンコンクールにエントリーすることを決意しました。今年に入ってから、エリザベートに出場できることになり、それからは猛練習の日々でした。
――第1次予選から本選までは、どのような思いで演奏に臨まれましたか。
桑原 私はホストファミリーのお宅に滞在することができたのですが、とてもすばらしいご家族で練習環境も良かったので、第1次予選から落ち着いて演奏することができました。エリザベートコンクールではピアノ選びはなく、スタインウェイが用意され、5分間の試弾がありました。第1次予選から満員の聴衆が温かく見守ってくれ、テレビやラジオの放映&放送も入り、こんなに街全体がコンクール一色になるのは初めての経験で、「地元文化密着型」だと感じました。

――桑原さんはどんなときでも極度に緊張したりすることなく、平常心で演奏できますね。
桑原 子どものころから学級委員としてみんなの前で話したり、ラジオ体操の模範演技をしたりするときもまったくアガることなく、大人になってからもステージでは緊張しすぎることはありません。でも、今回第1次予選では、18時45分に楽屋に入り、19時に演奏する曲目を告げられた(注:準備してきた4曲のエチュードの中から、その場で演奏曲を指定されるというシステム)のですが、そのときはリゲティが選曲されなくてよかったなと正直ホッとしました。もちろん予選が進むにつれ、みんな緊張感が増してきます。
――ファイナルまでの約1週間、6人のファイナリストが外界から遮断された生活を送るシャペル(チャペル)での滞在はいかがでしたか。新作も含め、2曲のコンチェルトの準備をしなければならないのは大変ですよね。
桑原 本選前には1日にふたりずつシャペルに入り、クリス・デフォールトの新曲「Music for the Heart」(注:ピアノとオーケストラのための作品)の楽譜を渡され、1週間スマホやパソコンとは縁のない生活でほとんど隔離状態になります。この間は、地元ラジオ局のインタビューが入ったり、作曲家とのミーティングがあったり、大野和士指揮ブリュッセル・フィルとのリハーサルが組まれたりします。

でも、毎日の食事がとてもおいしくて、特に印象的だったのは、エビのクリーム・クロケットにルッコラの素揚げがこまかく砕いて添えてあったお料理です。いまでも忘れられないくらいのおいしさでした(笑)。シャペルでは、他の出場者みんなと仲良くなり、新曲の練習は大変でしたが、有意義な日々を過ごすことができました。
吉見友貴さんが新曲のトップバッターで世界初演を担ったのですが、さぞ大変だったと思います。私はこの曲に関しては最初不安でしたが、練習するにつれ内容が理解できるようになりました。最初の人たちがリハーサルを終えて帰ってくるとみんなが感想を聞く、という感じでしたね。マエストロ大野についてはみなさんが同じ意見で、「とても落ち着いていて物事に動じない、おだやかでカリスマ性に満ち、ピアニストを幸せにしてくれる精神安定剤のような人だ」という意見でした。

©Alexandre de Terwangne
――本選でブラームスのピアノ協奏曲第2番を選ばれた理由は?
桑原 当初、ブラームスか、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番か選択肢があったのですが、ラフマニノフはルービンシュタインコンクールのときにオーケストラと納得のいく演奏ができたため、今回はブラームスにしたい、マエストロ大野と共演できるのならブラームスをぜひ弾きたいと思ったのです。いつも審査発表は夜半になるのですが、本選終了後は王妃に謁見するという大切な時間が設けられ、これも真夜中でした。このコンクールでは多くのことを学び、すばらしい体験ができました。

――いよいよ10月にはワルシャワですね。
桑原 いまはショパンコンクールに向け、まさに「ショパン漬け」の日々です。実は、小学校の卒業文集に、将来の夢として「ショパンコンクールに出ること」って書いていたんですよ。本当に出たかったかどうかは定かではないのですが、その頃はピアノのコンクールといえば、ショパンコンクールしか知らなかったし、「大きな夢でも書いておこう」くらいの気持ちだったのだろうと思います。その後、さまざまなコンクールに挑戦してきましたが、昨年の11月末までショパンコンクールという選択肢はなかったんです。でも、これが「卒業文集あるある」というものなのか、不思議な縁で実現することになりました。
時間も限られていますが、自分のできるすべてのことを行い、あのフィルハーモニーのステージに立つことを思い描きながら頑張ります!!
編集後記:
エリザベートへのエントリーを申し込んだ直後に、思いがけずショパンコンクールへの出場権を得た桑原さん。「予選を免除してもらえるのは嬉しいけれど、コンクールをたくさん受けてきた身としては、私が免除枠で出ることによって、予備予選通過者がその分一人減ると思うと、すぐに『ラッキー!応募します!』というわけにはいかなかった」と率直な胸の内を明かしてくれました。3週間くらい悩んだ末、出場の決断をしたそうです。出場者一人ひとりに、ショパンコンクールにたどり着くまでのストーリーがあるのですね。10月のワルシャワで演奏する桑原さんの姿を楽しみに待ちたいと思います。(編集部)
桑原志織 Shiori Kuwahara
東京都出身。2025年エリザベート王妃国際音楽コンクール(ベルギー)ファイナリスト入賞。2021年アルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクール(イスラエル)日本人史上最高位第2位。2019年ブゾーニ国際ピアノコンクール(イタリア)日本人史上最高位第2位、併せてブゾーニ作品最優秀演奏賞受賞。マリア・カナルス国際(2016/スペイン)、ヴィオッティ国際(2017/イタリア)共に2位等、圧倒的なパフォーマンスで世界を魅了し、活躍の場を広げている。東京藝術大学附属音楽高等学校を経て、藝大1年次に日本音楽コンクール第2位及び岩谷賞(聴衆賞)。2018年東京藝術大学首席卒業。同年4月よりベルリン芸術大学大学院に留学し、国家演奏家資格課程修了。スタインウェイ・ベルリン賞受賞。ドゥシニキ国際ショパン音楽祭(ポーランド)など国内外の演奏会に多数出演し、オーケストラとの共演も数多い。2025年デビューCD『桑原志織ピアノ・リサイタル~ブラームス・シューベルト・リスト』をリリース。音楽現代、レコード芸術ONLINE等で推薦盤に選出され高い評価を得ている。現在、コモ湖国際ピアノアカデミーに在籍。
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■ベヒシュタインセントラム東京トーク&コンサートシリーズ vol.15
ショパンコンクール本大会出場記念コンサート桑原志織ピアノリサイタル
2025.9/1(月)19:00 ベヒシュタインセントラム東京 ザール
ショパン:
ワルツ第2番 変イ長調 op.34-1
バラード第4番 ヘ短調 op.52
4つのマズルカ op.33
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58 ほか
問:ベヒシュタイン・セントラム 東京 03-6811-2925
https://www.bechstein.co.jp/events/centrumtokyo20250901
【CD】桑原志織ピアノ・リサイタル ブラームス・シューベルト・リスト〈ライヴ盤〉
[1]-[4]J.ブラームス:ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 op.1
[5]F.シューベルト:即興曲第3番 変ト長調 op.90 D899
F.リスト:
[6]バラード第2番 ロ短調 S.171
巡礼の年 第2年 “イタリア” S.161より
[7]6.ペトラルカのソネット 第123番
[8]7.ダンテを読んで ─ ソナタ風幻想曲
[9]コンソレーション第3番 変ニ長調 S.172
収録:2024年9月、杉並公会堂
カメラータ・トウキョウ CDT-1123 ¥3300
2025.3/10発売
【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール
出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


伊熊よし子 Yoshiko Ikuma
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。インタビューの仕事も多く、多い年で74名のアーティストに話を聞いている。近著は「モーツァルトは生きるちから 藤田真央の世界」(ぶらあぼ×ヤマハ)。
http://yoshikoikuma.jp/



