深化を続けるピアニスト・中井恒仁がいま踏み出すベートーヴェン・ソナタ全曲演奏の第一歩

 この秋から、ピアニスト中井恒仁による「ベートーヴェン ピアノソナタ全曲+α」シリーズがスタートする。若き日の情熱と円熟の境地をつなぐ32のソナタを通して、ベートーヴェンの全貌を描き出そうという意欲的な企画だ。

 「ベートーヴェンのソナタ全曲演奏や録音は、植田克己先生やゲルハルト・オピッツ先生ら恩師たちの姿を見て“いつか自分も”と漠然と思っていました。留学から帰国して以来、目の前の仕事に全力で取り組んできましたが、少し落ち着いた今、自分のやりたいことを改めて見つめ直し、ふとこのプロジェクトを進めたいと考えました」

 今回、全曲演奏を決意した背景には、師の影響に加え、自身の年齢もあるという。

 「ピアノ作品のみならず交響曲などにも触れてきたことで、作曲家の初期・中期・後期の様式の違いが、以前よりも鮮明に感じられるようになりました。また、ベートーヴェンが生涯を終えた年齢に自分も近づき、今こそ始めるべきだと感じたのです」

 第1回はソナタ第1番・第2番に加え、名曲第8番「悲愴」を取り上げる。時代順を意識しつつも、各回に必ず1曲は広く知られたソナタを組み込む構成だ。シリーズは全11回で完結予定。

 「誰もがみな32曲すべてに親しみがあるわけではないでしょうから、各公演で“聴きたい名曲”と“発見のある曲”の両方を楽しんでいただきたいと思っています。第1番・第2番のような初期のソナタは、ハイドンやモーツァルトの書法を受け継ぎつつ、4楽章構成という規模の大きさにベートーヴェンらしいエネルギーの意欲が見えます。一方、第8番『悲愴』は、初期から中期への劇的な飛躍を示す作品です。難聴に思い悩むなど、人生の転換期において彼が抱えた感情の噴出が直に伝わってきます」

 さらにシリーズの特色として、妻・武田美和子とのライフワークである連弾も各回に加える。第1回ではツェムリンスキーがピアノ連弾用に緻密に編曲したモーツァルトの《魔笛》を演奏する。 

 「ベートーヴェンの前後の時代の作品をあえて組み合わせることで、それぞれの魅力が浮かび上がるはずです」

 会場にはベヒシュタイン・セントラム東京を選んだ。「ベヒシュタインのピアノは、独特の艶感があり、ドイツ語的な発音や古楽器的な響きも作りやすい。楽器からインスピレーションを受けることも多いですね」と微笑む。

 年2回のペースで進めていく予定の壮大なプロジェクト。「ベートーヴェンのソナタは、苦難を乗り越えて崇高な境地へと至る作品群です。演奏を通して、その世界観を皆さんと分かち合いたい」と力強く語った。

取材・文:飯田有抄

(ぶらあぼ2025年11月号より)

中井恒仁 ベートーヴェン ピアノソナタ全曲+αシリーズ
【第1回】2025.11/13(木) 

【第2回】2026.3/5(木)
各日19:00 ベヒシュタイン・セントラム東京
問:ベヒシュタイン・セントラム東京03-6811-2935 
https://www.bechstein.co.jp


飯田有抄 Arisa Iida(クラシック音楽ファシリテーター)

音楽専門誌、書籍、楽譜、CD、コンサートプログラム、ウェブマガジン等に執筆、市民講座講師、音楽イベントの司会等に従事する。著書に「ブルクミュラー25の不思議〜なぜこんなにも愛されるのか」「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」(音楽之友社)等がある。公益財団法人福田靖子賞基金理事。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Macquarie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。