
音楽家の評伝や、それに基づく伝記映画などは数多く存在する。同じ人物であっても、描く人間が違えば、かなり印象の異なる人物像が浮き彫りにされるのはよくあることだ。ただしどの書き手・作り手も、自らの信念に従って「その人物らしさ」を伝えようとしていることに違いはない。だが、もしそれが行き過ぎてしまい、もはや犯罪に近いレベルにまで到達していたとしたら——。
映画『ベートーヴェン捏造』は、ベートーヴェンの登場する映画ではあるけれど、通常の伝記映画とは一味も二味も違う。たいていは“主役”として君臨するベートーヴェン(古田新太)だが、この物語の中心人物は、作曲家の「忠実な秘書」として仕えた男 シンドラー(山田裕貴)である。

彼はベートーヴェンを音楽界の「英雄」と信じ、熱烈に愛していた。崇拝するベートーヴェンの天才作曲家としてのカリスマ性を、なんとしても守りたいと考えた。実際には下品で、小汚く、短気な人間であることも知っている。しかし、自分こそは作曲家の真価をだれよりも深く理解している。だから自分が、その崇高さを守り抜かなくてはならない。彼は本気でそう思い、使命感を燃やしたのだった。
そんなシンドラーの不器用な振る舞いは、周囲やベートーヴェン本人からも嫌われる。やがてシンドラーの歪んだ愛情は、他人への激しい嫉妬となって、ベートーヴェンの死後さらに加速し暴走する。「後世に残すべき正しいベートーヴェン伝」を自ら執筆することを決心したシンドラーだが、その記述には真実と虚構とが入り混ざり……。
史実に基づく原作をバカリズムが小気味よいドラマに
映画の原作は、2018年に柏書房より単行本が刊行され、2023年11月に河出文庫より文庫化され大きな話題となった歴史ノンフィクション、かげはら史帆著『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫刊)である。著者のかげはらは、実在する資料や論文の調査を丹念に行いながらも、現代人の思考にフィットする見事なタッチで本作を書いた。
シンドラーの行動に関する問題は、すでに1977年3月に東ベルリンで開催された国際ベートーヴェン学会で研究発表がなされている。その事実は音楽学会に衝撃をもたらしたが、一般の音楽ファンはかげはらの著書を通じて知り、ショックを受けた人も少なくないだろう。たとえば、ベートーヴェンは交響曲第5番の冒頭について「『運命』が扉を叩く」と語ったという有名なエピソードが、実はシンドラーによる“でっちあげ”だったという事実は衝撃的である。
だが、そうしたシンドラーの捏造の告発がこの物語のテーマではない。シンドラーはいったい、なぜそのような行動に出てしまったのか。彼はどんな心理や状況の中で、追い込まれていったのか。純粋に憧れを抱いていた青年が“狂信者”となり、作曲家のイメージを捏造していくことで「憧れをコントロールする側の人間」へと目覚めていく……そのプロセスとはどんなものなのか? シンドラーや周囲の人間たちの心模様を追いながら、ふと、私たちの日常の中にも似通った構造は潜んでいないかと思いを巡らす。真実とは何か、虚構とは何か、理想と愛と思い込みとの境界線はどこにあるのか? 果たして真価を伝えるための嘘とは成立し得るのだろうか?



狂気とユーモアあふれる演技をベートーヴェンの名曲が彩る
こうした一見シリアスな問いが頭をよぎるものの、不思議と映画には重苦しいトーンはない。登場人物たちの人間くささがユーモラスに描かれ、つい笑ってしまう場面も多い。そもそも設定は19世紀のウィーンなのに、キャストはオール日本語で話す日本の俳優陣。バカリズムが手がけた脚本は、心地よいテンポで物語を運び、会話は「あいつ空気読めないじゃん」など徹底した“現代語訳”が楽しい。
実は、映画の半分にもいかないところで、ベートーヴェンは割とあっさりこの世を去ってしまう(これは原作でも同じ)。古田新太の演じるベートーヴェンはさほどセリフも多くはないが、圧倒的なキャラクターの濃さで強烈な印象を残し、不思議なほど自然に、晩年のベートーヴェンに見えてくる。山田裕貴のシンドラーが放つ静かな狂気は美しく、恐ろしい。ぜひ注目していただきたい。



またベートーヴェン関連の記事や本の中でしばしば絵画で見る「ベートーヴェンの部屋」や「ベートーヴェンの葬式」などが映画の中で再現され、動きと立体感が出てくるところにも心を動かされる。さらに、交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、第九、ミサ・ソレムニス、ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」、弦楽四重奏曲第13番など、ベートーヴェンの数々の作品が劇中で効果的に使われているのも注目だ。メインテーマ曲として使用されているのは、清塚信也の演奏するピアノ・ソナタ第23番「熱情」第3楽章である。
私たちの知るベートーヴェンは、革新的な音楽家であることに違いはない。だが、ひとりの逸材を巡って、それを取り巻く複数の視点があり、思惑があり、受け継がれ方があるということを、本作が生き生きと伝えてくれる。ベートーヴェンを巡る人間愛のおかしみ、かなしみに満ちた日本初の作品を、ぜひお見逃しなく。
文:飯田有抄
映画『ベートーヴェン捏造』
2025.9/12(金)より全国公開
原作:かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫刊)
主演:山田裕貴
出演:古田新太、染谷将太、神尾楓珠、前田旺志郎、小澤征悦、生瀬勝久、小手伸也、野間口徹、遠藤憲一 ほか
脚本:バカリズム
監督:関和亮
製作:Amazon MGMスタジオ 松竹
制作プロダクション:松竹
制作協力:ソケット
企画・配給:松竹
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飯田有抄 Arisa Iida(クラシック音楽ファシリテーター)
音楽専門誌、書籍、楽譜、CD、コンサートプログラム、ウェブマガジン等に執筆、市民講座講師、音楽イベントの司会等に従事する。著書に「ブルクミュラー25の不思議〜なぜこんなにも愛されるのか」「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」(音楽之友社)等がある。公益財団法人福田靖子賞基金理事。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Macquarie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。




