高坂はる香のインド旅 〜ズービン・メータを生んだ国の知られざるクラシック音楽事情

 インドの音楽と言えば、シタールやタブラなどの伝統音楽や、いわゆるボリウッド映画で見られる“歌って踊れる”陽気な音楽のイメージが強い方も多いと思います。しかし、そこはかのズービン・メータを生んだ国。14億とも言われる世界一の人口大国で、クラシック音楽はどのような状況にあるのでしょうか。海外コンクールの現地レポートでもおなじみ、そして実はインド通でもある高坂はる香さんが、アラビア海に面した西部の大都市ムンバイの最新音楽事情をレポートしてくれます。

取材・文・写真:高坂はる香

ムンバイ唯一のプロオーケストラ

 インドには、一つだけプロのオーケストラがあります。シンフォニー・オーケストラ・オブ・インディア(SOI)
 オーケストラが拠点とするのは、ムンバイ南部のコラバ地区(インド門やタージマハルホテルがある高級エリア)にある、ナショナル・センター・オブ・パフォーミング・アーツ(NCPA)。オーケストラ創設のきっかけは、NCPAの会長がイギリスでオーケストラを聴いて感銘をうけ、ムンバイで西洋クラシック音楽文化を定着させたいと志したこと。そのイギリスの演奏会の出演者だったカザフスタン人ヴァイオリニスト、マラト・ビゼンガリエフさんを音楽監督に招き、2006年、SOIがスタートしました。近年は年に2回、春と秋に定期演奏会が行われています。

NCPAは、長い海岸線のすぐ近くにあります。景色は美しいですが、海水は汚いようです

 実際のところ、インドのオーケストラとはいえ、インド人奏者は十数人ほど。残りは音楽監督のつてで集まったカザフスタン人やロシア人の演奏家で、シーズンのたびに数十名がどっと招聘されます。果たしてこれをインドのオーケストラと呼べるのか??
 5年前、ビゼンガリエフさんにインタビューした際にそのことを聞いたら、「イギリスの優れたオーケストラに純粋なイギリス人が何人いる? 今やイギリス人以外ばかりだろう。
 その意味では日本のほうが異様だ。外国人の奏者のほうが優れていても日本人奏者が採用されるという友人夫婦の事例を私は知っている。
 これだけ海外から呼ぶとお金がかかるのだから、もちろん優れたインド人演奏家が育つにこしたことはない。でも、私たちは優れた演奏家たちでコンサートがしたいだけだ」…と論破されてしまいました。

 さて、今回のインド滞在中、春シーズンの定期演奏会を聴いてきました。
 この日の公演は、昨秋N響定期のため来日していたばかりの若きハンガリー人指揮者、ゲルゲイ・マダラシュ、そしてピアニストのバリー・ダグラスがソリスト。日本でも普通にありそうなキャスティングです。

 このオーケストラが拠点とするのは、前述のNCPAの中にあるジャムシェッド・ババ・シアター。入口では必ずセキュリティチェックがあります。これは人が多く集まる場所ではよくあることですが(メトロに乗るにも、改札で荷物のスキャンが必要です)、特に外資系のホテルなど外国人が多く集まる場所では、テロを警戒した手荷物検査が必ずあります。

  こちらがホールのエントランス。水色の壁にシャンデリアと、ゴージャスです。記念撮影している方がけっこういました。

 この日は開演前にプレトークが行われていました。当日の演目の映像を見ながら、音楽の構造をしっかりめに解説するタイプの内容。お話しされていたのは、NCPAのスズキメソードを用いたアウトリーチプログラムを手がけていた方で、普段からシリーズでトークイベントをしているらしい。

 開演前のロビーには、ドリンクコーナーがあります。飲み物はチャイとコーヒー。お酒はありません。
 軽食は、チキン、チーズ、チャツネのサンドイッチに加え、サモサ(ポテトを立体的な三角の生地で包んで揚げたもの)や、ワダ(甘くない豆粉のドーナツ)があります。スパイシーな揚げ物を食べた直後にコンサートを聴くというのは、インドならではの経験です。

 インスタグラム投稿を意識した撮影ブースがありました。あれほどセルフィーが好きな人たちだというのに、ここで写真を撮っている人はほぼ見かけません。何かを狙うとうまくいかない。市場とはそういうものかもしれません。

 こちらがホール内。クラシック専用のコンサートホールのようなよく響くタイプではなく、多目的に使える会場という感じ。しかもなんと天井後方一面にモニターのスピーカーが仕込まれているそうです。エンジニアさんによれば、これによって「より広いホールのような響きを生み出している」とのこと。
 ステージの縁には花が飾られています。ヨーロッパのコンサート会場でもよくありますが、インドのこの習慣については「空気を浄化するため」だと前にSOIのスタッフさんが教えてくれました。
 
 この日の演目は、ブラームスのピアノ協奏曲第1番と、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。前述の通り、個々の奏者の腕前は確かなのですが、なにしろ都度集められるメンバーという限界はあるように感じました。
 この日は公演初日ということもあり、後半に進むにしたがってだんだんとまとまっていった印象。メンデルスゾーンの終盤では一体感と立体感が生まれていました。

演奏後、指揮者やソリストの首に花輪がかけられるのが定番です

 ちなみにお客さんの大部分はパールシー(ペルシャにルーツを持つとされるゾロアスター教のインドでの呼称。人口に占める割合は少ないながら裕福な家が多く、経済界では力があります。ちなみに指揮者のズービン・メータもパールシー)。若い聴衆も多く、頭を振りながらメンデルスゾーンを聴いていました。耳に入る会話の8割は英語です。
 客席のマナーは、許容範囲ながらあまり良いとはいえず、演奏中のおしゃべりや途中入場も散見されました。しかしむしろ驚いたのは、マナー違反を注意する係員の動き!
 ある係員は照射用のペンライトを持っていて、演奏の動画撮影を発見すると、無表情で容赦なくカチカチとその人を照らしまくります。それが演奏中に何度も起き、ときには彼のペンライトの射程範囲までズカズカ歩いてやってくるので、むしろその行為がなかなか迷惑という…。

 インドのオーケストラのコンサート会場は、まるでインドでないような雰囲気と、やっぱりインドらしいと感じる場面とが混在する、とても興味深い場所です。

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 ところでこのムンバイという土地、海沿いかつ気温と湿度が高いので、特に雨季の6〜9月は、アコースティック楽器にとって過酷な状況となります。
 
 先日、ムンバイ在住17年のサントゥール奏者、新井孝弘さんが、彼が楽器を教えているインドの方(インド人の生徒さんがいるのです、すごいですね)のお宅にボストンのグランドピアノがあるというので、どんなお家なのだろうと見せてもらいました。

 置かれていたのはボストンピアノ25周年記念のプレミアムモデル、125台中の73というシリアルナンバー入り。
 ショパンからラフマニノフまでレパートリーにしているという、このお宅の息子さんが弾いているそうです(子どもの頃、フレディ・マーキュリーの母校である寄宿学校に通っていた時代に音楽に目覚めたとのことですが、その話は近いうちにどこかで)。
 部屋に除湿機があるのは、この地域でピアノを良い状態に保つうえで当たり前と思われますが、驚いたのは、ピアノの下から伸びるコード。

 なんと響板の裏に取り付けるタイプの除湿機! Furtadosというインドの大きな楽器ディーラーから購入したそう。
 こちらの親子がインドでは普通のアイテムだとおっしゃるので、後日デリーのヤマハ・ミュージック・インディアの方に聞いたら、初めて見たとのこと。Furtadosの顧客の間でだけ流行っているのかもしれません。

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com