巨匠アブデル・ラーマン・エル=バシャ
「ゴルトベルク変奏曲」に“人生の指標”を見出して

©Chloe Kritharas

 明晰な解釈と端正な表現で聴衆を惹きつけるアブデル・ラーマン・エル=バシャ。10月のリサイタルはJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」をメインとし、モーツァルトとベートーヴェンのソナタを組み合わせる。エル=バシャは2024年4月に日本の稲城市で、満を持して「ゴルトベルク変奏曲」を収録しCDをリリースしたが、意外にもこの作品に取り組むことを長年ためらっていたという。

 「私の音楽的基盤を作ってくれたのは、間違いなくバッハの作品です。多声音楽の解釈とその表現技術など多くを学びました。若い頃にはショパンやリストやプロコフィエフらの華やかな作品に惹かれた時期がありますが、そうした要素はバッハの鍵盤作品にはありません。上質で高度なポリフォニーによる、見えない難しさがあるのみです。その特有の難しさから、私は長年『ゴルトベルク変奏曲』に取り組むことをためらってきたのです。しかし音楽を追求し続けるなら、避けることのできない作品だと思うようになりました。

 バッハ晩年の所産であるこの作品に、私は逆説的な2つの性質——喜びと悲しみを見出しています。喜びとは人生への愛、人々への愛です。そして悲しみとは人間の限界、不完全さです。それが見事なバランスで共存し、均整の取れた美しさがあるのです。よりよき人生の指標となるような性質が、この作品にあると信じています」

 リサイタルの前半に「ゴルトベルク変奏曲」をリピート(繰り返し)なしで全曲を演奏する。後半はモーツァルトのソナタ第14番とベートーヴェンのソナタ第21番「ワルトシュタイン」だ。

 「調性を意識して選曲しました。バッハはト長調。モーツァルトはハ短調、そしてベートーヴェンはハ長調です。この並びによって私が示したかったのは、明と暗のコントラストです。モーツァルトの第14番のソナタには暗さがあり、第1楽章にはベートーヴェンのソナタ第5番、第2楽章の中間部にはベートーヴェンの『悲愴』ソナタの第2楽章へのつながりを思わせます。また、ポリフォニックな書法で作られている部分もあり、バッハとのつながりも感じられるでしょう。対して、ベートーヴェンのソナタは『悲愴』や『熱情』のようなダークでドラマティックなものではなく、あえて明るいソナタ『ワルトシュタイン』を選びました。忘れてはならないのは、彼らのような天才たちは時代を超越する音楽を創造してきたということです。この三人の偉大な音楽家たちの作品に、つながりや個性を存分に感じながら聴いていただけると思います」

取材・文:飯田有抄

(ぶらあぼ2025年9月号より)

アブデル・ラーマン・エル=バシャ ピアノ・リサイタル
2025.10/15(水)19:00 浜離宮朝日ホール
問:朝日ホール・チケットセンター03-3267-9990 
https://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/


飯田有抄 Arisa Iida(クラシック音楽ファシリテーター)

音楽専門誌、書籍、楽譜、CD、コンサートプログラム、ウェブマガジン等に執筆、市民講座講師、音楽イベントの司会等に従事する。著書に「ブルクミュラー25の不思議〜なぜこんなにも愛されるのか」「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」(音楽之友社)等がある。公益財団法人福田靖子賞基金理事。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Macquarie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。