篠崎史紀が地元で若手とともに創り上げるステージ
2025北九州国際音楽祭「マイスター・アールト×ライジングスター オーケストラ」公演レポート

11月、篠崎史紀のリードにより指揮者なしで「第九」を披露

 北九州国際音楽祭のオリジナル企画として2012年に始動した「マイスター・アールト×ライジングスター オーケストラ」(通称MAROオケ)。気鋭の若手演奏家たちによる〈ライジングスター組〉と、北九州市出身者を含む国内主要オーケストラのコンサートマスターや首席奏者などの名手たちで構成される〈マイスター・アールト組〉から成るフェスティバル・オーケストラだ。
 2013年のガラ・コンサート以降、若い才能のお披露目の場として、多くの逸材を輩出してきた。今や、音楽祭の看板企画である。北九州市文化大使であり、今年3月末に惜しまれながらNHK交響楽団を退団した篠崎史紀がコンサートマスターを務め、指揮者を置かずに演奏者同士の呼吸で音楽を紡ぐ。篠崎はこのスタイルを「巨大なる室内楽」と表現する。

世界に羽ばたいたライジングスターたち

 MAROオケの活動は10年以上続くが、その顔ぶれは若返り続けている。篠崎によると、本企画の初期から参加している〈マイスター・アールト組〉のメンバーで、今年のステージにあがったのは篠崎本人とヴァイオリンの双紙正哉(都響首席、北九州市出身)のみとのことだった。当時若手だった〈ライジングスター組〉のメンバーは今や後進を導く立場となり、自然な世代交代が進んでいる。また、発足当初はオーディション制だった〈ライジングスター組〉も、現在はメンバーの推薦によってその輪が広がっている。そして、MAROオケで研鑽を積んだ演奏家たちの多くは、国内外の舞台で目覚ましい活躍を続けている。
 繊細な音色と豊かな音楽的感性で国際舞台へ飛躍した青木尚佳は、現在ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団初の女性コンサートマスターを務めている。また、透明感を基調としながら芯のある輝きを放つ音色を奏でる小林壱成は、第1コンサートマスターとして東京交響楽団を率いる。力強くしなやかな響きでMAROオケでも存在感を示していた笹沼樹(チェロ)は、カルテット・アマービレなどのメンバーとして近年の室内楽シーンを牽引している。そして、今回の公演にも登場した菅沼希望は、新日本フィルハーモニー交響楽団首席コントラバス奏者として、深い響きと包容力でオーケストラ全体を支えている。
 若手として北九州で名手たちの背を追った彼らは、今では北九州市芸術文化振興財団の主催事業にリサイタルなどで出演することもある。クラシック音楽界の最前線で活躍し、やがて導き手としてこの地に戻ってくる、その循環について篠崎は次のように語った。

篠崎「クラシック音楽は“再生”そして“伝承”をしていかなければならない。“伝承”したことによって、次の新しい“伝承”が始まる。もっと言うと、“守破離”です。一番大事なのは、それを教育として教えていくのではなくて、現場で一緒に創っていくこと。自分で感じたものを、次の人に伝えていく」

篠崎史紀

 「教える/教わる」の関係ではなく、共に創る仲間としてメンバーを迎え、ひとつのステージを“共奏”する。その過程は、時間がかかり、決して華やかなものではないかもしれない。だが、北九州国際音楽祭は、篠崎をはじめ〈マイスター・アールト組〉の後進育成に対する思いを真摯に受け止め、MAROオケというメンバーの帰ってくる場所を守り、継続してきた。その場所があるからこそ、〈ライジングスター組〉は北九州を「ふるさと」として拠り所とし、世界へ羽ばたいていったといえる。

演奏者と聴衆による音楽の交歓

 2025年11月のプログラムには、2020年にも演奏されたベートーヴェンの序曲「コリオラン」op.62が再び登場した。さらに、東京オペラシンガーズを迎えての交響曲第9番 ニ短調 op.125「合唱付き」が取り上げられ、会場は開演前から熱い期待に包まれていた。
 だが、聴衆が心待ちにしていたのは大作だけではない。開演前に行われる毎年恒例のプレ・コンサートを楽しみに足を運んだ人も少なくなかったはずだ。若い才能が間近で紡ぐ音楽に触れられるひとときは、MAROオケの風物詩として、すっかり定着している。

 今年のプレ・コンサートでは、各セクションによるアンサンブルが披露された。なかでも、木管メンバーによるM.アーノルド「3つのシャンティ」の演奏の際には、「シャンティ=船乗りの歌」の意から、フルートの菊地晃空が大型クルーズ客船「パシフィック・ワールド号」に専属フルート奏者として乗船し、世界を旅したエピソードを語るなど、フレッシュなトークに客席からも笑顔が溢れた。

 やがて開演のベルが鳴り、客席を包む静寂がすっと深まる。その緊張感のなか、序曲「コリオラン」op.62が重厚さをもって厳然と奏でられた。古代ローマの将軍コリオラヌスの葛藤を刻むこの音楽は、復讐心の烈しさと妻や母への情愛が交錯する陰影を内に秘めている。その緊迫と柔和がせめぎ合うドラマを、若い感性と円熟の名手が溶け合うMAROオケならではの濃密なアンサンブルが、見事に浮かび上がらせた。
 前半の最後は、篠崎による「第九」の“難所”を紹介するミニトーク。「今は弾けなくても、100年後の演奏家はきっと弾けるだろう」と語ったベートーヴェンの逸話を引用しながら、譜面に散りばめられた技巧をメンバーが実演すると、会場からは驚嘆の声がもれた。

 休憩を経て後半、メンバーの目線と呼吸が合わさり、いよいよ「第九」の演奏が始まる。2018年に構想が始まり、2020年に実施予定だったベートーヴェンの「第九」が、コロナ禍による延期を乗り越え、響ホールに響きわたった。

 音楽専用ホールとして名高い響ホールは、繊細で透明度の高い音響が特徴である。シューボックス型の客席には演奏者の表情や息遣いまで届く。本公演では、幅広い世代がその臨場感を共有した。終演後に湧き起こった拍手は、まるで「ようこそ」「おかえり」、そして「いってらっしゃい」と語りかけるような温かさを帯びていた。

「巨大なる室内楽」という創造の現場から未来をつなぐ

 今回の公演で際立ったのは、リハーサルから本番まで漂っていた、のびやかで穏やかな空気だ。指揮者を置かず、演奏者同士が視線と呼吸で音楽を紡いでいくMAROオケでは、個々人が主体的に響きを生み出す。一人ひとりの音が結びつき、音楽そのものが有機的に形づくられていく過程が、舞台上で鮮やかに描かれていた。オーケストラのみならず、合唱も含めた各セクションが自発的に音を奏で、互いを尊重し合う姿は、それが「プロの演奏家個々人の集合体」であることを改めて想起させた。

 MAROオケはもともと音楽祭の一企画として始まった。しかし今では、北九州に深く根づき、若手が育ち、地域と関わり続ける「レジデント・オーケストラ」と呼べる存在へと成長している。そして客席には、今回の出演者よりもさらに若い世代の姿も多く見受けられ、クラシック音楽を未来へとつなぐ確かな息吹が感じられた。

「色々なものを知ることが大事。物事を知ったことに対して、無駄なものは世の中にひとつもない。それを自分のためにどう役立てるか。それを自分で考える力が必要。MAROオケではその力をもった演奏者がたくさん育っている。未来は明るいと思います」

 篠崎はそう語り、晴れやかな笑みを浮かべた。

取材・文:槇原彩
写真提供:北九州市芸術文化振興財団

【公演データ】
2025北九州国際音楽祭
マイスター・アールト×ライジングスター オーケストラ
2025.11/23(日・祝)15:00 北九州市立響ホール


マイスター・アールト×ライジングスター オーケストラ
コンサートマスター:篠崎史紀(北九州市文化大使)
ソリスト・合唱:東京オペラシンガーズ

ベートーヴェン:
 序曲「コリオラン」op.62
 交響曲第9番 ニ短調 op.125「合唱付き」 

問:響ホール音楽事業課093-663-6661
https://www.kimfes.com