杜のホールはしもとで新たに始まる「うたシリーズ」は、講座とリサイタルを通して芸術歌曲の魅力を隅々まで味わい尽くす意欲的な企画である。シリーズの初回「ドイツ歌曲の森」でクローズアップされるのは、シューベルト、シューマン、ブラームスから、ヴォルフ、マーラー、リヒャルト・シュトラウスに至る19〜20世紀ロマン派のリート。音楽学者の広瀬大介が「入門講座」として、10月14日、12月2日、1月27日の3回にわたりドイツ歌曲の深化と変遷を紐解き、3月22日の「リサイタル」では、ソプラノの冨平安希子と指揮者、ピアニストの冨平恭平がリートの入門にふさわしいこだわりのプログラムを披露する。

ドイツ語と不可分のリートは、玄人向けの渋いジャンルという印象を抱く人も少なくないが、その扉を冨平と広瀬はどのように開くのか。シリーズのスタートを前に、そこに込めた想いをふたりがじっくりと語り合った。
――まずはおふたりのドイツ歌曲との出会いについて聞かせてください。
冨平安希子 私は両親とも歌手だったので、子どもの頃から歌曲は身近にありました。とりわけ父はドイツ歌曲をよく歌っていて、家にはいろいろな作曲家のリートがいつも流れていました。とはいえ、東京藝術大学では林康子先生のもとでイタリア音楽にどっぷりと浸かっていましたので、ドイツ歌曲を専門的に学んだのは、ドイツに留学してからでした。

ロッシーニ:オペラ《試金石》より一場面
広瀬大介 私は冨平さんのように幼少期から歌曲に触れていたわけではなく、10代でドイツ・オペラに出会ったのとほぼ同時に、ドイツ歌曲にも魅せられました。もちろんドイツ語は母国語ではないので、最初はテキストの内容に感情を掻き立てられたわけではありませんでしたが、表情豊かな音楽が自然とテキストとの距離を埋めてくれました。ドイツ歌曲を聴くとき、ドイツ語がわからなくても、音楽がテキストの理解を助けてくれることは、今回のシリーズで特にお伝えしたい点のひとつです。
冨平 優れたオペラ歌手は、往々にして優れたリート歌手でもあり、歌曲とオペラの歌い方に大きな違いはありませんが、テキストとの向き合い方という点では、両者は大きく異なります。オペラでは「」のなかの台詞を歌い、ひとつの役を演じるのに対して、歌曲では詩を朗読するように歌いながら、ピアニストとともにひとつの完結した世界を創り上げていきます。それは自分自身に語りかける、独り言のようなものでもあります。ドイツ語ではそれを「intim(インティーム)」と表現します。
広瀬 そう、その「インティーム」は重要なキーワードですよね。インティームとは、「自分が身体的にも精神的にも、当該の対象と親(ちか)しく、感情の昂ぶりを覚える状態にある」ことをあらわすニュアンスの言葉で、日本語に訳すのが難しいドイツ語のひとつですが、ドイツ・リートを語るうえでは欠かせない概念です。
作曲家も、オペラと歌曲で、声楽の扱い方に大きな違いはありませんが、オペラはエンターテインメントが基本であるのに対して、歌曲は「インティーム」な世界であり、そこがオペラと異なるところです。ただし、リヒャルト・シュトラウスはオペラにも歌曲にも、エンターテインメントと「インティーム」の両方を持ち込むことができる器用な作曲家でした。シューマンやブラームスはシュトラウスほど器用ではなかったので、オペラでは思うような評価を得られなかったり、そもそもオペラを書かなかったりしたわけです。シューベルトはそうした器用さを持った作曲家でしたので、彼がもう少し長生きをしていたら、その両方を兼ね備えたオペラを書いていたかもしれません。

――「4つの最後の歌」はエンターテインメントと「インティーム」を共存させた、シュトラウスの音楽の典型ともいうべき傑作ですね。今回はピアノとともに、初演時の曲順で演奏されます。
広瀬 「4つの最後の歌」は、歌手とオーケストラの音量のバランスを取るのがとても難しい作品で、オーケストラが歌手の声を圧倒してしまう演奏がほとんどです。今回のようにピアノとの共演で聴くと、この作品の「歌」としての魅力を再発見できるのではないでしょうか。安希子さんもそうお感じでしょうか?
冨平 そうですね、今回のようにピアノと演奏する場合はオーケストラと歌う時よりも、歌曲としてのより繊細な表現が許されることが多いように思います。「4つの最後の歌」のピアノ編曲にはブージー・アンド・ホークスと全音の2つのバージョンが存在しますが、今回は2013年に全音から出版された楽譜を使用します。夫(ピアノで出演する冨平恭平)は、声楽パートを最大限尊重しながらも、オーケストラでの演奏をふまえたテンポ設定にしたいと話していました。
広瀬 恭平さんとは公演の合間にトークをする予定になっているので、そのあたりもじっくりと伺ってみたいですね。
――ヴォルフはドイツ歌曲の歴史に大きな足跡を残した作曲家ですが、その作品には難解なイメージも付き纏います。
広瀬 ヴォルフの歌曲は、テキストと音楽が密接に結びついているので、ドイツ語が理解できないと、とっつきにくい印象を抱いてしまうのかもしれません。だからこそ、テキストはどんな内容か、そのテキストが音楽とどのように絡み合っているのか、入門講座を聞いていただくことで、より深く楽しんでいただけるようになると思います。
冨平 ヴォルフの歌曲は難しいと思われがちですが、「イタリア歌曲集」なんてまるで漫才を聞いているかのようなユーモアに満ちた作品です。今回取り上げる〈ミニョン(君よ知るや南の国)〉(「ゲーテの詩による歌」より)は、ヴォルフのなかでも聴きやすい作品ですし、難しく考えずに楽しんでいただけたら嬉しいです。ゲーテの〈ミニョン〉は多くの作曲家がインスピレーションを得て、オペラや歌曲を書いていますが、現代の感覚だと、「こんな女性に心揺さぶられちゃうんだ」と思ったりもします。歌曲を通して作曲家のそうした人間らしい側面に触れると、より親しみを感じられるかもしれません。
広瀬 「リート」は、日本ではドイツの芸術歌曲を指す言葉として用いられていますが、ドイツ語では単に「歌」を指す言葉で、元来誰もが楽しめるものです。ドイツ人たちはそれを突き詰めて、芸術歌曲へと昇華させ、そのなかでも作品としての強度が高いものが古典として残りました。現代のドイツの音大ではどんな教育課程になっているんでしょう?
冨平 ドイツの音楽大学には必ずリートを専門的に学ぶコースがありますし、歌曲が人々からリスペクトを持って扱われているのを感じます。今回の選曲のコンセプトはお客様にドイツ歌曲を身近に感じていただくことですが、その土台には、ドイツ歌曲の「型」への敬意があって、そうした型から生み出される品格も大切にしたいと思っています。子音の一つひとつと誠実に向き合うことで、ドイツ語を解さないお客様にも、テキストの細かなニュアンスが伝わると信じています。

1897年 ウィーン・ミュージアム蔵
広瀬 リートは19世紀に芸術性を高め、人々に鑑賞されるものになりましたが、そうした芸術歌曲を聴く「リーダー・アーベント(リートの夕べ)」は、本場ドイツでも減少傾向にあります。リートがどんどん高尚なものになって、日常生活との距離が生まれているのも理由のひとつですが、歌曲を聴くのに相応しいサイズの室内楽ホールがドイツには少ないというのも、リートの受容を妨げています。その点、日本にはどんな都市にも室内楽専用ホールがありますから、ドイツよりも恵まれた環境であると言えるかもしれません。
冨平 杜のホールはしもとは、そうした日本の素晴らしい室内楽ホールのひとつですね。今回は、お客様が歌手とピアニストを囲むサロンのような空間に皆様をお迎えします。こうした一体感のある舞台では、繊細な表現も存分に楽しんでいただけますし、なによりリラックスしてドイツ歌曲の世界を堪能していただけると思っています。

広瀬 ステージと客席が同じ高さにあるサロンのような空間は、ドイツ歌曲を味わうのにぴったりだと思います。杜のホールはしもとでは、以前にも講演をさせていただきましたが、相模原のお客様の熱量にとても驚いたのを覚えています。今回の「うたシリーズ」でも、冨平さんご夫妻やお客様と一緒に、ドイツ歌曲の魅力を探求できるのをとても楽しみにしています。
取材・文:八木宏之
「4つの最後の歌(Vier Letzte Lieder)」
オススメ音源
♪ 冨平安希子さん SELECT ♪
●オーケストラ伴奏版:ルチア・ポップ(1939−1993)
●オーケストラ伴奏版:フェリシティ・ロット(1947−)
♪ 広瀬大介さん SELECT ♪
●オーケストラ伴奏版:リーザ・デラ・カーサ(1919−2012)
●ピアノ伴奏版:バーバラ・ボニー(1956−)
Information
うたシリーズ ドイツ歌曲の森vol.1
◾️入門講座
各回13:30~15:00 杜のホールはしもと・多目的室
【第1回】10/14(火)
シューベルト:「歌」が「芸術歌曲」になるその軌跡
【第2回】12/2(火)
シューマン&ブラームス:クララに捧げた普遍的な愛のかたち
【第3回】2026.1/27(火)
マーラー&シュトラウス:洗練をとげた「歌」という名の小宇宙
講師/広瀬大介(音楽学者・音楽評論家)
料金/各回1500円(全席自由)
◾️リサイタル
2026.3/22(日)14:00 杜のホールはしもと・多目的室
出演/広瀬大介(監修・聞き手)
冨平安希子(ソプラノ)、冨平恭平(ピアノ)
曲目/
シューベルト:
春に D882
シューマン:
「ミルテの花」より〈献呈〉 op.25-1
「リーダークライス」より 〈月夜〉 op.39-5
ブラームス:
「4つの歌」より〈ナイチンゲール〉 op.46-4
「4つの歌」より〈五月の夜〉 op.43-2
ヴォルフ:
「ゲーテの詩による歌」より〈ミニョン(君よ知るや南の国)〉
マーラー:
「若き日の歌」より〈春の朝〉
「リュッケルトの詩による歌」より〈ただ美しさを愛でるなら〉
リヒャルト・シュトラウス:
「8つの歌」より〈夜〉 op.10-3
「6つの歌」より〈わが子に〉 op.37-3
「5つの歌」より〈解き放たれて〉op.39-4
4つの最後の歌〔初演順〕
1.眠りにつくとき
2.九月
3.春
4.夕映えのなかで
*広瀬大介さんとゲストのトークコーナー
料金/全席指定4000円 ステージサイド席3500円 学生1000円
問:チケットMove 042-742-9999
https://hall-net.or.jp/02hashimoto
https://move-ticket.pia.jp




