山下牧子(メゾソプラノ)が語る、演出家・栗山昌良と《蝶々夫人》

山下牧子(スズキ)

 今年は東京二期会にとって創立70周年という記念すべき年。去る7月には「二期会創立70周年記念公演」の一環として、フランス国立ラン歌劇場との共同制作でワーグナーの大作《パルジファル》を上演し話題となったばかりだ。その東京二期会がこの9月、いよいよ《蝶々夫人》を上演する。

 今回のプロダクションは、日本人には特になじみのある数多の《蝶々夫人》にあって、東京二期会にとってというだけでなく、日本人にとっての至宝とも言えるであろう栗山昌良演出によるものだ。東京二期会主催、新国立劇場、藤原歌劇団(日本オペラ振興会)共催による3団体(3団体の合唱団が共演)で、新国立劇場オペラパレスを会場に上演される意義も大きい。

 《蝶々夫人》にこれまで多数出演、蝶々さんを強い心で静かに支え続け、ときに蝶々さんの心持ちを代弁するスズキの数々の名演から、“スズキと言えば山下、山下といえばスズキ”と、いまやその代名詞ともなっているメゾソプラノの山下牧子に話を聞いた。
(2022年8月 都内稽古場 取材・文・撮影:寺司正彦)

右:大村博美(蝶々夫人)
左:宮里直樹(ピンカートン)

 山下牧子が《蝶々夫人》に初めて出演したのは2007年、新国立劇場の舞台。このときはいまと違ってケート役だった。しかしこの経験がのちのスズキ役の勉強にもなっていたという。

 「スズキ役は2009年の東京二期会オペラ劇場が最初でした。演出はもちろん栗山昌良先生です。先生とは《椿姫》ですでにご一緒していましたが、スズキ役は和装での演技を徹底的に教えていただきました。その経験があったからこそ、その後の新国立劇場での出演につながったのだと思います。
 新国立劇場の栗山民也先生の演出では、ケートと蝶々さんが初めて対面するとき、ケートは薄暗がりのなかグレーの衣裳にドレスの後ろが大きく膨らみ、それこそ軍艦のような姿で蝶々さんに威圧的にせまってくる。そして、『あの女が怖い』と蝶々さんが後ずさりする。圧倒的な強者と弱者との対比が描かれます。強者側のケートを演じたことは、弱者である蝶々さんに寄り添うスズキを演じる上でとても勉強になりましたね。ケート、スズキ両方の気持ちもわかるし、ケートがより大きな存在として私たちの前に出てこられると、スズキ役もやりやすいです」

スズキを演じる山下牧子 栗山昌良演出の東京二期会《蝶々夫人》ゲネプロ(2017年10月)より 撮影:寺司正彦
東京二期会《蝶々夫人》ゲネプロ(2017年10月)より 
撮影:寺司正彦

 東京二期会公演をきっかけとしてその後、山下は新国でも次々とスズキに抜擢される。

 「新国立劇場では当時スズキ役だった大林智子さんから多くの刺激をいただきました。大林さんも栗山昌良先生の下で稽古と舞台経験を積まれた方ですから先生のスズキに対する考えを体得していらして、ケートをやりながら彼女のスズキを間近に観られたのは、ほんとうにラッキーでした」

 かつて、二期会創立メンバーのひとり、畑中良輔や栗山昌良、そして指揮の若杉弘らが世界に通じるオペラや歌手を育てたいと考えていた時代、日本に欠けていたのは専有のオペラ劇場だった。彼らの陳情が実って新国立劇場が開場する。海外の演出家が招かれた際、新制作の舞台の稽古場では演出家のコンセプトに沿ってまず歌手たちが自ら動いてみるのが基本的な稽古の進め方だ。

 「自分が想ったように動いてみると、基本的にOKが出る。昌良先生の教えは海外の演出家に通用するものとわかりました。昌良先生の舞台は、お客様に舞台装置や照明で効果的に伝えるというよりは、歌手の身体ひとつで表現できることを見せるものだと思います。ちょっとした呼吸一つで見え方が違うんだ、ということを口酸っぱく言われ、何度もやり直しさせられました。歌手の演技そのものを大事にされていて、だからこそ、昌良先生から勉強させていただいた舞台所作、音楽から読み解くものは世界に通じるんだな、とそのとき思いましたね。私は幸いなことに二期会と新国立劇場を行き来し、いろんな経験を積ませていただいている。ほんとうに感謝しています」

左より:山下牧子(スズキ)、 成田博之(シャープレス)、大村博美(蝶々夫人)

 《蝶々夫人》の第2幕でシャープレスがピンカートンからの手紙を蝶々さんに読んで聞かせる場面がある。そこでスズキはひとり後ろで座って見守っている。スズキの息づかいひとつでも「そうじゃないんだよ!」と叱咤されるくらい稽古は厳しかったという。

 「あまりの厳しさに稽古場で号泣したこともありました。その姿を見た昌良先生から『明日、山下は稽古にくるだろうか?』と気遣いの電話がスタッフにあったそうです。厳しさの裏にあるこういう優しさに触れると、どこまでもついていこうと思ってしまうのです(笑)。歌手に対して厳しく諦めない、あなたはできるんだから、と。
 また、先生の厳しさを信じてついて行けるのは、私たちよりも舞台とオペラを愛し、その力を信じていらっしゃることがわかるからです。楽譜から全キャストの表現と役割を読み解き、演技をつけていく。音楽を具現化するための立ち居振る舞い、動きを突き詰めていく。楽譜に敬意を払って向き合う姿勢は、簡単に真似できるものではないと思います」

 あるとき栗山に言われた言葉が特に印象に残っているという。

 「外国人は立っているだけで様になるが、日本人は全然かなわない。でも、日本は歌舞伎などの海外に誇れる舞台芸術表現を持っている。外国人がリスペクトする部分でもある。それは私たちが積み重ねてきた文化。だから、オペラ歌手も歌舞伎をもっと観て、日本の美を知っていなければならないよ」

 また、スズキは蝶々さんの代弁者でもあるとも語った。

 「蝶々さんの気持ちを代弁するのがスズキの役どころ。だから、お客様を泣かせるのはスズキなんだよ。それができなきゃダメだ」

左から2番目:青木エマ(ケート)

 日本が誇る三大《蝶々夫人》といえば、新国立劇場(演出:栗山民也)、藤原歌劇団(演出:粟國安彦)、そして今回の東京二期会(演出:栗山昌良)だ。もちろん過去には天才演出家・三谷礼二が手がけ、最近では東京二期会公演で宮本亞門が新たな視点から再創造するなど、日本における《蝶々夫人》上演史には様々な歴史があることは確かだ。

 しかしなかでも上記3つは永年日本人に愛され、現在でも上演し続けられている名舞台だ。三者三様だが、日本人にとっての「美」をこれでもかと追求する。その究極の姿が栗山昌良の舞台だ。栗山が二期会で《蝶々夫人》を初演出したのは、1957年。以来、60年以上の歳月をかけ一人の演出家が同じ団体で同じ作品をこれほどの長期にわたり追求することは稀だ。

山下は最後に公演にかける想いをこう述べた。

 「栗山昌良先生がこう言ってるからとか、先生の舞台であることを忘れるくらいの次元で、3団体が一緒になって、出演者全員が舞台上で活気ある演技ができればいいなあと思っています」

稽古場にて演出家・栗山昌良(前列右から4人目)とともに 提供:東京二期会公式ツイッターより

【Information】
《二期会創立70周年記念公演》
東京二期会オペラ劇場《蝶々夫人》全3幕


2022.9/8(木)18:30、9/9(金)14:00、9/10(土)14:00、9/11(日)14:00 新国立劇場

指揮: アンドレア・バッティストーニ
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団
演出: 栗山昌良

蝶々夫人:大村博美(9/8, 9/10) 木下美穂子(9/9, 9/11)
スズキ:山下牧子(9/8, 9/10) 藤井麻美(9/9, 9/11)
ケート:青木エマ(9/8, 9/10) 角南有紀(9/9, 9/11)
ピンカートン: 宮里直樹(9/8, 9/10) 城 宏憲(9/9, 9/11)
シャープレス: 今井俊輔(9/8, 9/10) 成田博之(9/9, 9/11)
ゴロー :大川信之(9/8, 9/10) 升島唯博(9/9, 9/11)
ヤマドリ:畠山 茂(9/8, 9/10) 杉浦隆大(9/9, 9/11)
ボンゾ:斉木健詞(9/8, 9/10) 三戸大久(9/9, 9/11)
神官:大井哲也(9/8, 9/10) 的場正剛(9/9, 9/11)
合唱: 二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部

問:二期会チケットセンター03-3796-1831
http://www.nikikai.net
http://www.nikikai.net/lineup/butterfly2022/