
しなやかで深く、優しさの中に芯を感じさせる河村尚子のピアノ。彼女が今年のリサイタルのテーマに選んだのは、「別れ」である。昨年はデビュー20周年を迎え、ドイツを拠点としながら順風満帆に活動を続ける河村が、なぜ「別れ」をテーマに掲げたのだろうか。
「私自身年齢を重ねる中で、親交の深かった方々が相次いで他界されることがありました。そうした経験の中でふと、作曲家たちは『別れ』の局面でどういう作品を書いていたのだろう、と考えるようになりました」
河村が選んだのは4作品だ。モーツァルトが旅先のパリで母を亡くした時期に書いたソナタ第8番イ短調、ラヴェルが第一次大戦で亡くなった友人たちに捧げた「クープランの墓」、ラフマニノフの幻想的小曲集より第1番「エレジー」、そしてムソルグスキーが急逝した画家の友人の絵に触発されて作曲した組曲「展覧会の絵」である。
「いずれも名曲ではありますが、このように並べるのは私としても新鮮です。ただ、これらの音楽は、決して悲観的なだけではないんですね。モーツァルトのソナタの第1楽章は悲劇的ですが、第2楽章は幸せだった思い出に浸るような音楽です。ラヴェルの『クープランの墓』はどこか天国的というか、この世のものではないような、不思議な雰囲気もあります」
後半の2曲は重厚なロシア作品である。
「ラフマニノフの『エレジー』はこの4曲の中では例外的に特定の人への哀悼の意は示されていませんが、作風には尊敬していたチャイコフスキーへの思い入れを感じ取ることができます。変ホ短調のくすんだハーモニーで彩られています」
ラヴェルのオーケストラ版が広く知られる「展覧会の絵」については、ムソルグスキーが残した原曲のピアノ版を丁寧に読み解き、解釈していきたいと語る。
「楽譜という視覚情報を頼りに、作曲家の意図を自分自身で読み取り、組み立てていく工程には長い時間がかかります。でもその道筋を大切にしたいなと思うのです。その過程を経て、自分と作品との距離がゆっくりと縮まり、自分のものになっていく感覚が好きなのです」
この4作品を通じて、あらためて「別れ」の意味を考えたいと河村はいう。
「別れや死はだれもがいつかは向き合うテーマです。悲しく寂しいだけでなく、幸せで愛らしい思い出を喚起するものでもあります。いつかは別れがあるからこそ、一日一日を大切に、自然体で生きていきたいですね。コンサートを聴く皆様に、さまざまに思いを巡らせる時間をお過ごしいただきたいです」
取材・文:飯田有抄
(ぶらあぼ2025年8月号より)
河村尚子 ピアノ・リサイタル
2025.9/25(木)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
問:ジャパン・アーツぴあ0570-00-1212
https://www.japanarts.co.jp

飯田有抄 Arisa Iida(クラシック音楽ファシリテーター)
音楽専門誌、書籍、楽譜、CD、コンサートプログラム、ウェブマガジン等に執筆、市民講座講師、音楽イベントの司会等に従事する。著書に「ブルクミュラー25の不思議〜なぜこんなにも愛されるのか」「クラシック音楽への招待 子どものための50のとびら」(音楽之友社)等がある。公益財団法人福田靖子賞基金理事。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Macquarie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。

