
取材・文:那須田務 写真:松尾淳一郎
濱田芳通とアントネッロが2023年5月に川口リリアホールで行なった《マタイ受難曲》は、躍動的で演劇的な表現と、深い宗教的感動が共存する、忘れえぬ公演だった。それから約3年半。濱田らが再び「マタイ」に取り組んだ。会場は改修を終えた川口総合文化センター・リリア 山伸サステインホール(音楽ホール)。福音史家の中嶋克彦、イエスの坂下忠弘、通常はバスが歌うピラトを彌勒忠史(カウンターテナー)など、前回から主要なソリストと器楽の基本編成とキャスティングを引き継ぎ、一部歌手と器楽奏者が入れ替わった。福音史家とイエスを除く声楽は18人。二つの合唱群を構成するとともに、ソリストも兼ねる。器楽はヴァイオリン6名、ヴィオラ2名。オーボエ系とフルートは各2名(管楽器は一組のみ)。通奏低音はチェンバロ、オルガン、ヴィオローネ、チェロ/ガンバ、リュート、ハープ。指揮の濱田はリコーダーも吹く。改修後の同ホールは座席数が600席から550席に減り、以前にも増して豊かな響きになった。ピリオド楽器の「マタイ」を聴くにじつに贅沢な空間と言える。

冒頭合唱曲の前奏は比較的遅めのテンポ。第2フルートとオーボエが奏でる主題を、第1フルートとオーボエが一小節半遅れて模倣するのだが、濱田はこの受け渡しを小節線にとらわれず、ひとまとまりの音楽として捉え、アッチェレランドして一気に第7小節冒頭へと導く。大きくうねる器楽を背景に対話する合唱の響きの豊かさ!その後の楽曲も小節線にとらわれず、ところどころ拍節をヘミオラ風に捉え直すことで、音楽に柔軟や動きと躍動感が生まれ、受難の物語が力強く展開されていく。中嶋の福音史家はドイツ語の発音が明瞭。端正なフレージングを保ちつつ、折々に感情をにじませながら物語を導く。坂下は若々しく端正で気品のあるイエスを好演。

アントネッロの合唱の魅力は、音量や迫力だけではない。一人ひとりの声が個性を保ち、集団の中にさまざまな人間の顔を浮かび上がらせる。ソリストたちはこの群衆の中から随所で舞台の前面に出てきてレチタティーヴォやアリアを歌うのだが、任意な装飾的パッセージやカデンツァを加える。いずれも個性豊かで秀逸だったが、とくに心に残ったのは、テノールの谷口洋介の第35曲「耐え忍べ」、彌勒忠史の第39曲「憐れみたまえ、わが神よ」、そしてソプラノの中山美紀の第49曲「愛ゆえに私の救い主は死のうとされる」。谷口は苦しみに耐える心情を切々と伝え、彌勒は強靭なフレージングと強烈なアフェクト(情念)で、泣きの歌ともいうべき絶唱を聴かせた。中山の「愛ゆえに」では、温かく量感のある美声にトラヴェルソとオーボエ・ダ・カッチャが寄り添い、特別に加えられたハープが静謐な美しさを添えていた。

コラールの歌詞に対する繊細な表現も注目される。たとえば第1部冒頭コラール「心より愛するイエス、あなたは一体どんな罪を犯されたのですか」は慰めに満ちた弱音で歌い出され、「それは私が負うべきもの」で静かな内省をにじませるなど、受難の出来事を見つめる人々の内面が印象深く映し出される。
演劇性もこの「マタイ」の大きな特徴だ。ピラトの審問で彌勒が見せる身振りや、イエスを嘲弄する合唱の実際の笑いは、中世の受難劇を思わせる。「愛ゆえに」の静謐な美しさから、「十字架につけよ!」の叫びへの急転換も鮮烈だ。直前の音楽が美しいだけに、群衆の残酷さが際立つ。ユダの裏切りやペテロの否認、群衆の嘲笑が具体的な音で描かれ、聖書の登場人物たちが弱さや残酷さをそなえた生身の人間として立ち現われる。
こうした演劇的表現を支えるうえで器楽の役割も大きい。ヴィオローネが弓で弦を激しく打ちつける地震の音を表現したり、エッジの効いた弦の鞭打ちを描いたりするのはいうまでもない。ユダの銀貨がチャリンと鳴る音や「ペテロの否認」の鶏の鳴き声をチェンバロで模倣し、ユダの接吻の音をオルガンでコミカルに表現するなど、即興的な音の形態模写が面白い。
捕縛の場面では通奏低音が登場人物の動きを描写する。もはや器楽奏者たちは、物音や動作、登場人物の心理までを音で描く役者だ。その他、イエスのゴルゴタへの道行きでは、通奏低音楽器がトルコマーチを奏でて、中東風のエキゾチシズムとユーモアを醸し出すなど濱田ならではのアイデアが満載。

また、《マタイ受難曲》のような大作では、個々の場面をどうつなぎ、全体のドラマを組み立てるかが重要になる。その点で際立っていたのが、「間」の取り方。イエスの捕縛後、弟子たちが逃げ去ってからコラール「人よ、あなたの大いなる罪を嘆け」が始まるまで、また福音史家がイエスの死を告げた後の「間」は、いずれも修辞学でいう「沈黙」の表現であり、音楽をあえて先に進めないことで、直前の出来事の重みを噛みしめる時間を生み出す。
独自の拍節の捉え方がもたらす躍動とダイナミズム、バロックの宗教画や寓意画を彷彿とさせる生々しくコミカルなアフェクト、音楽がその場で生まれるかのような即興的な趣。全曲を通して細部まで工夫が凝らされ、メンバーもそれぞれの持ち味を存分に発揮した。前回の公演よりも表現の密度と強度が増し、驚きと感動がさらに大きく鮮やかになった。カーテンコールで鳴りやまない拍手に応えて、濱田が器楽奏者や合唱メンバー一人ひとりを立たせて称える姿が印象的だった。これもまたアントネッロ流。

濱田芳通 & アントネッロ J.S.バッハ「マタイ受難曲」
2026.10/3(土)、10/4(日)各日15:00
川口総合文化センター・リリア 山伸サステインホール(音楽ホール)
指揮:濱田芳通(リコーダー)
福音史家:中嶋克彦
イエス:坂下忠弘
声楽・管弦楽:アントネッロ
ソプラノ:金沢貴恵 鈴木麻琴 田崎美香 中川詩歩 中山美紀 和田悠花
アルト:中嶋俊晴 新田壮人 野間 愛 彌勒忠史
テノール:伊原木幸馬 小沼俊太郎 田尻 健 谷口洋介
バス:黒田祐貴 清水健太郎 谷本喜基 松井永太郎
オーボエ:小花恭佳 小野智子
フルート:柴田俊幸 野崎真弥
ヴァイオリン:天野寿彦 廣海史帆 瀬下莉瑚
依田幸司 吉田爽子 大光嘉理人
ヴィオラ:多井千洋 本田梨紗
チェロ/ヴィオラ・ダ・ガンバ:武澤秀平
ヴィオローネ:布施砂丘彦
リュート:高本一郎
チェンバロ/ハープ:曽根田 駿
オルガン:上羽剛史
濱田芳通 & アントネッロ
https://www.anthonello.com

