繊細な詩情から圧倒的な熱量まで、自在に
この秋、カナダ出身のピアニスト、ケヴィン・チェンが日本で全国ツアー6公演をおこなった。ジュネーヴ国際コンクール(2022)、ルービンシュタイン国際ピアノコンクール(2023)など主要コンクールを次々に制し、2025年のショパン国際ピアノコンクールでも第2位になるなど、世界的に注目される若手ピアニストの一人。10月9日、すみだトリフォニーホールで行われた東京公演の模様を、音楽ライターの高坂はる香さんがレポートする。

文:高坂はる香
数々のコンクールで優勝し、来日公演を重ねるなかで、日本で着実にファンを増やしてきたケヴィン・チェン。昨年のショパン国際ピアノコンクールでの第2位入賞により、人気にさらに火がついた。今回はコンクール後初となる日本でのリサイタルツアーとあって、会場には聴衆の期待感が満ちあふれていた。
前半はショパン。透き通るような美音で始めた「3つの新しいエチュード」で空気を温めつつ穏やかに整え、エチュードop.10へ。ショパンコンクールの際、その並外れたテクニックを生かした爆速かつ音楽的な演奏で人々を驚嘆させたレパートリーだ。
クリアなタッチのおかげで作品のすみずみまでが見えるよう。練習曲を芸術的な領域にまで磨き上げたショパンの意図が汲まれ、卓越した技術でそれを音にしていく。1曲1曲、外連味のない表現で始まるが、曲の終わりに近づくと少し大胆に歌い、アクセントをつけることが耳を惹きつける。コンクールという場から解放されたエチュードは、端正な美点はそのままに、自由さと遊び心が垣間見られるものだった。

そんなセンスの良さがまず光ったのが、op.10-3の「別れの曲」。複数の旋律が絡み合う美をしっかり描き出す演奏で、作品のつくりの見事さに改めて聴き入っていると、最後は解放されたかのように感情に訴えかける。コンクール時よりはテンポが落とされていたop.10-4やop.10-8は、それでもピアノを弾く人なら誰もが羨むほどのスムーズさだった。終曲のop.10-12は激しいエモーションを持ちながらもなめらかで、ただ悲しみをぶつける激しさとは一線を画すもの。「革命」というのは、ショパン自身が名付けたものではないことを改めて思い出した。
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後半はスクリャービンの「24の前奏曲」op.11より第11番から。ポタリと垂らした絵の具の1滴が水面にうっすら色を広げるかのように、空間を淡いスクリャービン色で覆って空気をつくる。
続く「幻想曲」op.28でもやはりクリアなタッチが生き、細かく揺れるピアニッシモのフレーズをはじめ、そのすべてに大きな効果があることを教えてくれる。詩曲「焔に向かって」op.72では、透明感はそのままにしっかり闇を感じる音を鳴らす。純粋な表現の裏にある、影を愛する一面も見せてくれるようだ。ショパンコンクールの1次予選で、ワルツ以外すべて暗い短調の曲ばかりを集め、ショパンの心の影を描いていたことを思い出した(弾きたい曲を選んだら自然と短調ばかりになってしまった、と当時ご本人は話していた)。

一転、リストの「エステ荘の噴水」は持ち前のクリアな音をそのまま生かした演奏。しかしただ美しく輝く水を感じさせるだけではなく、それを見つめるリストの哲学的なまなざしまで感じさせられた。
交響詩「レ・プレリュード」は、子どもの頃から作曲をしていたというケヴィン自身によるピアノソロ編曲版。彼の圧倒的な鍵盤のコントロール力が存分に発揮される快演で、よく回る指と技巧は、もちろん速さやダイナミックさだけのためでなく、感情表現や音色のコントロールのためにあるということが伝わる。力強さ、遊び、たっぷりとした歌など、さまざまな表現を次々と聴かせるスケールの大きな演奏だった。
アンコールは、ショパン「華麗なるワルツ」op.18、ショパン=リスト「6つのポーランドの歌」S.480より〈春〉、リスト「忘れられたワルツ」第1番の3曲。客席が明るくなっても聴衆は感謝を伝えようと懸命に拍手を続け、ケヴィンがそれを嬉しそうに眺める様子に、幸せな一体感を味わった。

終演後のロビーは大変な熱気! サイン会の長蛇の列はホワイエの階段をぐるぐるとまわり、3階まで伸びていた。あれほどピアノで雄弁に語っていたピアニストは、穏やかで控えめな雰囲気の21歳の青年に戻り、たくさんのファンの声かけに笑顔で応えていた。
写真提供:ノヴェレッテ
【Concert Informaiton】
ケヴィン・チェン ピアノ・リサイタル
2026.10/9(金)19:00 すみだトリフォニーホール
ショパン:3つの新しいエチュード op. posth
ショパン:12のエチュード op. 10
スクリャービン:24の前奏曲 op. 11より 第11番
スクリャービン:幻想曲 op. 28
スクリャービン:詩曲「焔に向かって」op. 72
リスト:巡礼の年第3年から「エステ荘の噴水」
リスト:交響詩「レ・プレリュード」(ケヴィン・チェンによるピアノソロ版)
[アンコール]
ショパン:ワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」op.18
ショパン=リスト:「6つのポーランドの歌」S.480より〈春〉
リスト:忘れられたワルツ第1番 S. 215/1

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/
