2010年
ワーグナー・シリーズがスタート
ぶらあぼ 2010年からワーグナー・シリーズが始まりました。演奏会形式の上演で、初回が《パルジファル》でした。
柴田 最初に《パルジファル》とは大胆ですね。
芦田 音楽祭を長く続けていくには、どこかで勇気を持って舵をきる必要がありました。N響が《パルジファル》を演奏するとなれば、インパクトもあるでしょう。
柴田 たしかにそうですね。
芦田 その期待に応えて、N響が本当に一生懸命やってくれました。
柴田 この《パルジファル》は、春祭の公演のなかでもっとも印象に残っています。オペラにおけるN響の実力を見せつけられたし、歌手も粒が揃っていた。純粋な演奏会形式でも、まったく退屈しなかった。演奏するほうも見るほうも、それだけ集中していたのでしょうね。
芦田 演奏者の姿が、ピットから舞台にあがったことで、“見えた”じゃないですか。それも良かったのでしょうね。この演奏はホレンダーさんも聴いていて、「日本のオケがここまでワーグナーを演奏できるとは思わなかった」と褒めてくれた。ホレンダーさんのような人がそこまで評価してくれる演奏を成し遂げられたことで、「これなら続けていって間違いない」と確信できました。
ぶらあぼ この年、ムーティが「カルミナ・ブラーナ」を指揮しています。
芦田 「東京・春・音楽祭」として再出発するとき、ムーティさんには「音楽祭は続けるから、また来てほしい。そして次は「カルミナ」を!」と言ったら、ムーティさんも「絶対に続けたほうがいい。「カルミナ」もやる」と約束して、その通り実行してくれた。ムーティさん自身、ヴェローナの音楽祭など長い歴史をもつ海外の音楽祭の大変な面もご存じでしたから、「続けることの大切さ」を痛感していたのでしょうね。我々にとって、この「カルミナ」は大きなプレゼントでした。
2011年
大震災直後に敢行された音楽祭
芦田 音楽祭は3月18日に開幕する予定でした。地震と原発事故のあと、日本中で多くのイベントが「自粛」された。我々は、できる公演はやるつもりでいたのですが……。そこで、鈴木が「今、なぜ音楽が必要なのか」という趣旨の意見広告を朝日新聞の朝刊に出した。ちょうどそれと前後して、本公演が「にほんのうた」で再開しました。3月23日のことです。今でもよく覚えています。会場全体が異様な空気に包まれ、出演者も来場者も張りつめていました。そして満席なのです。当日券もよく売れた。「音楽をみんなが求めているのだな」と実感しました。
柴田 春祭以外のコンサートもよく入っていました。
芦田 震災当時、指揮者のズービン・メータさんがフィレンツェの歌劇場と来日していたのですが、公演が中止となり帰国せざるをえなかったのです。メータさんが再び日本に行って被災地や被災者のために何かやりたいと関係者の方に連絡をとってきた。一方、春祭でも《ローエングリン》が中止になり、N響とオペラシンガーズが空いていた。そこで、あの《第九》が実現したのです。この公演の雰囲気も異様でした。ただ、不思議なことに、客席と舞台の気持ちが一つになっていることが、はっきり分かるのです。あんな体験は初めてでした。
ぶらあぼ 《第九》という選曲は、誰が……。
芦田 実は最初、メータさんは別の曲を考えていた。しかし「歓喜の歌」にある「すべての人が一つになる」というメッセージこそ、一番重要だと思ったので、「今は絶対に《第九》だから」と言い、やってもらいました。
柴田 メータが《第九》を指揮したことは、単なる演奏を越えて、社会的な影響を及ぼしたと思います。プラスに向かうためのエネルギーをくれた。
芦田 演奏家のなかにも「コンサートなんて開いていいのか?」と迷っている人がたくさんいた。そういう人たちが「音楽家は音楽を通して、初めて何かを還元できる」という自信を取り戻す契機になったと思います。
ぶらあぼ 残念ながら中止になりましたが、ワーグナー・シリーズはアンドリス・ネルソンスの指揮で《ローエングリン》が予定されていました。
柴田 いつかやってほしいですね、この公演は。
芦田 やりたいですね。でも、大変な売れっ子になってしまったネルソンスさんを長期間連れてくるは、ちょっとむずかしいかな……。