“東京のオペラの森”から“東京・春・音楽祭”へ – 9年間の軌跡を振り返る

2006年
ヴェルディの大作を取り上げた2年目

《オテロ》より (C)大窪道治

《オテロ》より (C)大窪道治

ぶらあぼ 2006年のオペラは《オテロ》、そしてムーティが「レクイエム」を指揮しました。
柴田 小澤さんがキャンセルした年ですよね?
芦田 そうです。小澤さんが体調を崩して、フィリップ・オーギャンさんに代わりました。降板が決まったのが1月だったので、大変な騒ぎでした(笑)。

《レクイエム》を指揮するムーティ (C)大窪道治

《レクイエム》を指揮するムーティ (C)大窪道治

この年は「レクイエム」の指揮者もなかなか決まらなかった。そんなとき小澤さんに半ば冗談で「ムーティさんに、ダメもとでお願いしてみてほしい」と言ってみました。小澤さんの具合が悪くなる前の話です。それでウィーンのホテルで小澤さんがムーティさんに話してくれたら、その場で「やるよ」と言ってくれた! 今、振り返ると、小澤さんが振れなくなった年に、ムーティさんという存在が音楽祭を支えてくれた。とても大きな助けになりました。
柴田 《オテロ》はウィーン国立歌劇場との共同制作ですね。「東京のオペラの森」で上演したオペラは、すべてほかの劇場との共同制作になっています。
芦田 実は2005年の《エレクトラ》は、当初、共同制作ではなかったんです。でも、せっかく素晴らしいステージができたのに東京での公演だけで捨ててしまうのはもったいないと、海外の引き受け先を探したところ、フィレンツェ歌劇場が手をあげてくれた。ちなみに、この《エレクトラ》は、次にパリのオペラ座が買い取って、この秋(2013年)にもまた上演されましたよ。
柴田 それは凄い! 古くなっていないということですね。
芦田 2006年の《オテロ》はウィーンとの共同制作が決まっていました。というのは、ウィーン国立歌劇場の総監督だったイオアン・ホレンダーさんが、アドバイザーとして音楽祭に関わってくれていたので、当然「ウィーン」が重要なパートナーとしてあがっていました。
柴田 日本から新制作のオペラを発信するなんて、当時は珍しかったでしょう。
芦田 「東京のオペラの森」が初めてでした。
ぶらあぼ 2006年から美術館でのコンサートがはじまっています。
芦田 そうですね。せっかく春の上野でやっているのだから、もっと“お祭り”みたいな雰囲気を出して盛り上げたかった。最初の年は、まるまる6週間、文化会館を借りてオペラの稽古をしたのですが、その間、文化会館が暗いのです……。これではいけないと鈴木も言い出して、2年目からは練習の半分を横須賀に移す一方、美術館さんにも協力してもらって、文化施設でのコンサートを催すことにしました。

2007年
《タンホイザー》で小澤征爾が復帰

ぶらあぼ 2007年は、いよいよワーグナーの《タンホイザー》が登場しました。この公演は、小澤さんの復帰公演でもありました。
柴田 よく覚えています。非常に印象深い公演でした。
芦田 我々もこの年が勝負だと思っていました。結果として内容も良かったし、3年目でようやく音楽祭らしくなったな、と実感できました。
柴田 《タンホイザー》をハッピーエンドにしたカーセンの演出が斬新でしたし、出演者が客席から入場した「大行進曲」の場面など、いまだに忘れがたいほどインパクトがありました。今まで観た《タンホイザー》では、これが一番かもしれない。

《タンホイザー》より (C)M.Terashi

《タンホイザー》より (C)M.Terashi

芦田 カーセンさんと小澤さんのコンビも良好で、二人でよく話し合っていました。とにかく、オペラのチケットが完売したし(笑)、小澤さんも元気に戻ってきたし、「これからもやっていけそうだ」と、音楽祭に勢いがついた年でした。
ぶらあぼ オーケストラ公演を再びムーティが指揮しています。
柴田 ムーティの凄まじいほどの底力を感じた、ヴェルディ「聖歌四篇」(抜粋)とロッシーニ「スターバト・マーテル」でした。
芦田 このときも急に来日が決まったので、会場が上野ではなく、すみだトリフォニーホールになりました。
柴田 2007年から公演数がぐっと増えていますね。ミュージアム・コンサートにも人気と実力を兼ね備えた若手がたくさん出ていたし、講談師の神田山陽が《タンホイザー》を講釈したり、脳科学者の茂木健一郎さんのトークイベントもあった。
芦田 懐かしいな(笑)。いろいろやりましたね。ここから今の音楽祭に近いかたちになりました。

《タンホイザー》より (C)M.Terashi

《タンホイザー》より (C)M.Terashi